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菱田春草

菱田春草

ひしだ しゅんそうHishida Shunso
7 作品

菱田春草は、代表作黒き猫を自ら「駄作黒き猫」と呼んだ日本画家である。腎臓炎による網膜炎で失明の危機に遭い、亡くなる前の二年あまりに落葉黒き猫を描いたが、慢性腎臓炎のため満36歳で没した。

明治7年(1874年)、いまの長野県飯田市仲ノ町に生まれた。明治23年(1890年)に東京美術学校へ入り、橋本雅邦や校長の岡倉天心に学んだ。卒業制作《寡婦と孤児》は「化物絵」として落第を求める教授もいたが、天心の裁定で優秀第一席となり、明治28年(1895年)に卒業した。

明治31年(1898年)、天心が校長を辞めると、母校で教えていた春草も辞表を出し、天心らと日本美術院を創設した。美術学校の先輩、横山大観とともに、墨線に頼らず空気や光を描こうと試みた。墨線の代わりに色の線を使い、乾いた刷毛で色をぼかし重ねたのである。明治33年(1900年)の菊慈童は、評論家の大村西崖が「朦朧体」と最初に評した作の一つだった。

明治36年(1903年)、天心の勧めで大観とインドへ渡り、翌年には天心らとアメリカへ向かった。ヨーロッパを経て帰国するまでに、海外の展覧会では、日本で酷評された画法が好評を得た。

明治39年(1906年)、日本美術院の移転に伴い茨城県五浦へ移った。絵の注文はほとんどなく、貧しい暮らしのなかで色彩の研究を続けた。翌年の第1回文展に出した賢首菩薩では輪郭線を復活させ、細かな点描で人物の量感を補った。結果は二等賞第三席だった。

明治41年(1908年)、目の治療のため東京へ戻り、代々木に住んだ。視力が回復すると近くの雑木林で写生を重ね、翌年、その林を材料にした落葉で第3回文展の二等賞第一席を受けた。しかし非日本画ともそしられた。春草は『時事新報』で、油絵も水彩画も日本画も、将来は日本人が構想し制作したものとして、一様に日本画と見られる時代がくると述べている。

明治43年(1910年)、初めて文展の審査委員に任命された。出品に向けて準備していた大作をあきらめ、5〜6日ほどで描いた小品が黒き猫だった。翌年4月、腎臓炎と網膜炎が進み、再び制作を禁じられ、9月16日に没した。作品のうち4点が国の重要文化財に指定されており、明治以降の画家では最も多い。

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