新版画とは、大正から昭和にかけて、浮世絵以来の分業によって作られた新しい木版画である。
風景版画の川瀬巴水が描いた《増上寺之雪》は、国が木版画の技術を記録に残すため、昭和27年度(1952年度)に行った事業の一枚で、翌年に仕上がった。使った版木は9枚、重ねた摺りは42度にのぼる。
一枚の版画を作る四つの仕事
江戸の浮世絵は、版元・絵師・彫師・摺師の四者が共同で作ったものである。
版元は、浮世絵を企画して売る商人だった。何を描くかも、おおむね版元に決める権利があったと考えられている。
絵師は下絵を描く。それを清書した決定稿を「版下絵」という。彫師は版下絵を版木に貼り付け、紙ごと彫っていく。こうして作る途中の画稿や版下絵は、ほとんど残っていない。
版木には山桜の板が多く使われ、一つの色に一枚の版木を使うのが基本だった。摺師は、それを和紙に一色ずつ摺り重ねる。寛保(1741〜44)のころには、版木に付けた「見当」という目印によって、数色を重ねて摺れるようになっていた。
保永堂という版元から出た、東海道を描いたシリーズの一枚である。落款の下にある「保永堂板」の印が、版元のしるしだった。
渡邊庄三郎が始めた新版画
渡邊庄三郎は、新版画を始めた版元である。明治18年(1885)、茨城県に生まれた。17歳で、浮世絵を海外へ売る店の横浜店に勤め、ばれん(紙の裏をこすって摺る道具)で摺る木版画の美しさにひかれた。当時の浮世絵は、西洋の写真や印刷の技術が入ってきたことで、衰える一方だった。
明治39年(1906)に自分の店を開くと、古い浮世絵を売りながら、浮世絵の複製版画を作り始めた。翌年からは新しい図柄の版画も手がけ、輸出向けに売った。
大正4年(1915)、渡邊はそれとも違う版画に取りかかる。最初に絵師として迎えたのは、オーストリアの画家フリッツ・カペラリだった。カペラリはウィーンの絵画アカデミーで学んで明治44年(1911)に来日したが、第一次世界大戦が始まって帰国できなくなっていた。
渡邊は、東京のデパートでカペラリの水彩画の個展を見て、自分の思い描く版画の一部を、この画家なら形にできると考えたという。この年、二人はさまざまな題材と判型(紙の大きさ)をそろえた12点を作った。これが、いわば新版画の見本になった。
渡邊は、カペラリの版画を見せて、浮世絵の研究仲間だった画家の橋口五葉に協力を求めた。外国人の作品でさえ、デッサンが確かで、色彩に要約のある原画なら必ず版画に成功する、と説いたという。五葉は大正4年(1915)、渡邊を版元として《浴場の女》を作った。
この図柄の摺りを受け持ったのは、のちに巴水と長く組む摺師、斧銀太郎だと記録されている。
渡邊は、大正4年からのこれらの版画を、それまでの複製や輸出向けの版画と分けて「創作板画」と呼んだ。1921年の文章では、目指した版画をこう書いている。
飽くまでも肉筆画に隷属せず、また旧型にも囚はれない創作的分子に富み、且つ芸術を本位とした新しい板画
受け継いだのは分業の仕組みで、摺り方は新しく試した。ばれんの角を斜めに立て、わざと画面に摺り跡を残す摺り方は、ゴマ摺りと呼ばれ、その後の渡邊の版画で多く使われた。パステルや色鉛筆の線のように見える摺り方も、渡邊と職人たちが試しながら編み出したもので、渡邊の覚書によれば、大正5年(1916)のカペラリの作品で初めて現れた。
昔のやり方で足りると言う彫師や摺師には、渡邊が自分で摺りの見本を作ってみせた。うまくいかないときは、版元の渡邊が自ら彫り、摺ることもあったという。
自分で描き、彫り、摺る創作版画
渡邊より前、明治の末から、別のやり方で新しい版画を作る画家たちがいた。下絵を描くだけでなく、彫りも摺りも画家自身が手がける「創作版画」である。
その始まりとされるのは、山本鼎の《漁夫》である。明治37年(1904)、文芸誌『明星』に「刀画」の名で載った。山本は幼いころ木版師の内弟子となり、のちに東京美術学校で洋画を学んだ画家だった。
明治40年(1907)、山本は仲間の洋画家たちと雑誌『方寸』を創刊し、自分で描き、彫り、摺った版画を載せた。大正7年(1918)には、同じ考えの画家たちと日本創作版画協会を結成している。
創作版画の側には、分業を守る新版画を時代遅れと見る批判もあった。いま当たり前に使われる「新版画」という呼び名も、当時はただ「新しい版画」を指す言葉で、渡邊が自分の版画に使った例はわずかしかない。
近江八景を見て、巴水が版画を始めた
伊東深水は、巴水と同じ師に学んだ画家である。大正5年(1916)に渡邊の新版画に加わり、最初の版画として《対鏡》を作った。大正5年7月の年記がある、美人画の一枚である。深水はその後も、美人画の版画を手がけていく。
深水は風景も描いた。大正6年(1917)から翌年にかけて渡邊から出た連作《近江八景》である。大正7年(1918)、巴水は、同じ師の門下の展覧会でこの連作を見た。これなら自分にも出来ると思い、版画を始めたという。
深水の《対鏡》も、巴水の最初の版画も、カペラリの版画の試し摺りをもとに生まれた、と渡邊は覚書に残している。
巴水はその年の秋、最初の版画「塩原三部作」を出した。その一枚が《塩原おかね路》である。
この《塩原おかね路》にも、パステルや色鉛筆の線のように見える、あの新しい摺り方が使われている。
渡邊の外へ
大正12年(1923)の関東大震災のあと、新版画は渡邊のもとでなくても作れるようになり、昭和に入るといくつもの版元が加わった。巴水も、千代紙を作る伊勢辰から版画を出している。
新版画は、海の外にも並んだ。昭和5年(1930)には、米国のトレド美術館が、新版画の画家10人の作品343点を集めた展覧会を開いた。この展覧会は、全米の10館を巡回した。
洋画家の吉田博も、大正9年(1920)に渡邊のもとで版画を始めた。のちに渡邊とは袂を分かったが、分業はやめなかった。彫師と摺師を雇い、自ら版元となって、私家版の『米国』の連作を完成させた。
吉田は版画に「自摺」の二字を添えた。摺ったのは摺師でも、仕上がりは自分が現場で監修した、という意味である。その摺りは平均で30数度、多いものは96度に及ぶ。吉田博の摺りの見分け方は、「吉田博の摺りはいつのものか(1)判別の手引き」で扱っている。
版木9枚、42度の摺り
大正11年(1922)の巴水《雪の増上寺》は、冒頭の《増上寺之雪》とは別の一枚である。その年の1月18日、大雪の日の夕暮れに、増上寺の門前で写生した絵をもとにしている。版木は7面、摺りは約25度を重ねた、と渡邊は作品に添えた解説に書いた。
巴水が旅を描いた連作の一枚には、摺りの工程を順に貼り込んだ帖が残っている。墨摺を1回目として、34回を数える。
昭和27年度(1952年度)、国の文化財保護委員会は、木版画の技術を記録に残す事業で、美人画を深水に、風景画を巴水に任せた。巴水は描く場所を決めかねて町を歩き、最後に増上寺の門を選んだ。こうして翌年仕上がったのが、《増上寺之雪》である。
使った版木は9枚で、摺りは42度。9枚の版木を、くり返し摺り重ねたことになる。摺ったのは、巴水の最初の版画《塩原おかね路》から組んできた斧銀太郎だった。
一枚の版画の名前
《増上寺之雪》の一式は、東京国立博物館に収められている。原画と版下絵、9枚の版木、色の版8枚のほか、摺りを一度重ねるごとの途中の状態を残した「順序摺」が、42回分そろっている。
この一枚に付いている名は、巴水である。版木を彫ったのは彫師の佐藤寿録吉、42度の摺りを重ねたのは摺師の斧銀太郎だった。
出典
- 清水久男「カペラリ考」『浮世絵芸術』152号、2006年
- 清水久男「川瀬巴水と版元」『浮世絵芸術』153号、2007年
- 服部郁美「川瀬巴水の画業 版画制作を中心に」『浮世絵芸術』153号、2007年
- 小山周子「新版画と伝統―「増上寺の雪」の制作と戦後の状況について」『東京都江戸東京博物館紀要』第3号、2013年
- 大田区立郷土博物館 学芸員コラム「川瀬巴水」
- 千葉市美術館「新版画 進化系 UKIYO-E の美」資料、2022年
- 秋田県立近代美術館「THE 新版画」資料、2024年
- すみだ北斎美術館・太田記念美術館・アダチ版画研究所の浮世絵の解説
- ミネアポリス美術館と東京国立博物館の所蔵記録と解説
- 茂木本家美術館と静岡市美術館「吉田博展」資料、2021年
- 国立新美術館と長野県の創作版画の解説
- Asian Art Newspaper のトレド展の記事、2013年
- 週刊アスキーの SOMPO 美術館展の紹介記事
- 『日本大百科全書』『世界大百科事典』『百科事典マイペディア』の各項目
注
- 渡邊庄三郎の言葉は、渡邊の文章「新版画を作るに就ての私の意見」(『美術画報』1921年)からの引用で、清水久男の論文による。
- 渡邊とカペラリの出会いには、カペラリが複製の浮世絵を買いに渡邊の店へ来たのがきっかけだという話もある。
- 《浴場の女》の摺師はミネアポリス美術館の所蔵記録による。《浴場の女》を1916年完成とする展示もある。
- 図版のうち、フリッツ・カペラリ《傘》(東京国立博物館所蔵、ColBase)と川瀬巴水《増上寺之雪》(東京国立博物館所蔵、ColBase)は東京国立博物館、山本鼎《漁夫》は愛知県美術館、東海道の一枚は江戸東京博物館、《浴場の女》は米国議会図書館の所蔵品の画像による。伊東深水《対鏡》は、ミネアポリス美術館の所蔵品の画像を引用した。
- 巴水の生涯は「川瀬巴水――日本各地の風景を木版画に残した「旅情詩人」」で、版元の印から摺りの年代を読む話は「川瀬巴水の「渡辺印」──版元印から摺りの年代を読む」で扱っている。
図版
- 歌川広重《東海道五十三次(保永堂版) 46 庄野 白雨》 — Public domain / Wikimedia Commons, Database of the Edo Tokyo Museum出典
- フリッツ・カペラリ《傘》 — ColBase 利用規約(CC BY 4.0 互換、出典表記が必要) / 東京国立博物館(ColBase)出典
- 橋口五葉《浴場の女》 — Public domain / Wikimedia Commons, Library of Congress出典
- 山本鼎《漁夫》 — パブリックドメイン(愛知県美術館) / 愛知県美術館出典
- 伊東深水《対鏡》 — 著作権者の許諾による掲載(2026-10-08、オーナーが遺族から許可を得た) / ミネアポリス美術館 2002.161.205。著作権者の許諾を得て掲載出典
- 川瀬巴水《塩原おかね路》 — Public domain / Wikimedia Commons出典
- 川瀬巴水《雪の増上寺》 — Public domain / Wikimedia Commons出典
- 川瀬巴水《増上寺之雪》 — ColBase 利用規約(CC BY 4.0 互換、出典表記が必要) / 東京国立博物館(ColBase)出典
