川瀬巴水の作品を手に取ると、画面の隅か余白に小さな印が押されている。丸の中にカタカナで「ワタナベ」と入ったものが有名だが、実際には文字だけの印、細長い印、紋が入った印など、何種類も存在する。これらは版元・渡辺版画店(渡辺庄三郎)の印で、押された印の型から、その一枚がいつ頃摺られたかをある程度絞り込める。

ただし絞り込めるのは「ある程度」までで、印だけで初摺を決めることはできない。ここが実際の売買で一番間違われるところなので、先に理由から書く。

印は摺った時ではなく、在庫から出す時に押された

渡辺印を年代の物差しとして使うときに、最初に頭に入れておく必要があるのがこれである。

Moku Hanga の調査によれば、渡辺は摺り上がった時点ではなく、在庫から出す時点で印を押していた。実際、1930年代後半から1940年代初頭に摺られた作品が、戦後になってから丸印を押された例が確認されている。

つまり印が示すのは「販売された時期」であって、「摺られた時期」ではない。印から言えるのは「少なくともこの印が使われていた時期には、まだ店にあった」という上限側の情報である。

巴水の落款と版元印は別物

混同されやすいので確認しておく。画面内の「巴水」の署名と朱文の落款は作者のもので、版元印とは無関係に入る。年代判定に使うのは版元印のほうで、両者は別の情報源として扱う。

渡辺印を年代順に見る

以下の分類と年代は Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」の整理に基づく。年代は目安で、使用期間は互いに重複する。

初期の丸印(1909〜1916年頃)

直径約10mm。円の中にカタカナで「ワタナベ」。巴水が渡辺と組む前の時期を含むため、渡辺版画店全体の歴史として押さえておく程度でよい。

初期の丸印(1909〜1916年頃、直径約10mm)。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」
初期の丸印(1909〜1916年頃、直径約10mm)。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」

丸ワタナベ印(1915〜1989年)

直径6〜7mm。カタカナで「ワタナベ」。使用期間が70年以上あり、これ単体では年代をほとんど絞れない。詳しくは後述する。

丸ワタナベ印(1915〜1989年、直径6〜7mm)。画像の大きさは実寸の比を表しません。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」
丸ワタナベ印(1915〜1989年、直径6〜7mm)。画像の大きさは実寸の比を表しません。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」

A1(1926〜1929年頃)/A2(1928〜1930年頃)

いずれも「版権所有渡邊庄三郎」。A1が初期型、A2が後期型で意匠が異なる。使用期間は重なる。

左がA1(1926〜1929年頃)、右がA2(1928〜1930年頃)。ともに「版権所有渡邊庄三郎」で意匠が異なります。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」
左がA1(1926〜1929年頃)、右がA2(1928〜1930年頃)。ともに「版権所有渡邊庄三郎」で意匠が異なります。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」

B(1930年〜1932年3月頃)

「版元渡邊版畫店」。文字主体の版元印で、戦前の巴水を見るときに重要。「渡辺印といえば丸印」と思っていると見落とす。

B(1930〜1932年3月頃)「版元渡邊版畫店」。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」
B(1930〜1932年3月頃)「版元渡邊版畫店」。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」

C1(1931年1月〜1933年3月頃)/C2(1932年7月〜1942年頃)

どちらも「版権所有渡邊庄三郎」の細長い印。海外のコレクターが sausage seal と呼ぶ形。C1は1933年以降には確認されていない。C2は1942年まで長く使われる。両者の使用期間は重なっており、ある年を境に一斉に切り替わったわけではない。

左がC1(1931年1月〜1933年3月頃)、右がC2(1932年7月〜1942年頃)。通称 sausage seal。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」
左がC1(1931年1月〜1933年3月頃)、右がC2(1932年7月〜1942年頃)。通称 sausage seal。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」

D(1933年12月〜1942年頃)

渡辺の紋に続けて「版権所有」「不許複製」の意の漢字が入る。C型と時期が重なる。

D(1933年12月〜1942年頃)。渡辺の紋に「不許複製」が続きます。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」
D(1933年12月〜1942年頃)。渡辺の紋に「不許複製」が続きます。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」

E・F・G(1940〜1944年頃)

Eは「銀座の渡辺が発行」、Fは「銀座の渡辺が意匠」、Gは「渡辺が意匠」。戦時期にあたり、巴水の戦前末期の作品を見るときに出てくる。

左からE(1940〜1941年頃)、F(1940〜1943年頃)、G(1941〜1944年頃)。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」
左からE(1940〜1941年頃)、F(1940〜1943年頃)、G(1941〜1944年頃)。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」

H(1979年頃)

「版元銀座渡辺規」。巴水以外の作家の作品にも押される。

H(1979年頃)「版元銀座渡辺規」。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」
H(1979年頃)「版元銀座渡辺規」。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」

「6mmなら生前摺、7mmなら後摺」は本当か

海外のコレクター資料では長らく、小さい丸印は古く、7mm印は巴水没後(1957年以降)という整理が使われてきた。今でもこの説明を載せた売り文句を見かける。

現在の調査結果はこれを支持していない。

1200dpiで実測したところ、1920年代から1940年代と確認できる作品の丸印はおおむね6.5mm前後で、外円を含めない5.5mmから7.1mmまでの幅があった。印は手彫りで、摩耗すれば新しく作られる。1mm前後の差を渡辺版画店が年代識別のために管理していた形跡はない。Moku Hanga は「1mmの違いなど誰も気にしていなかった」と書いている。

さらに、1960〜70年代に意匠された作品にも6mm程度の丸印が押されている。戦後にも6mm印は存在する。したがって「6mmだから1920年代」とは言えない。

一方で7mmが常に新しいわけでもない。丸印が7mmに統一されたのは平成に入ってからで、平成・令和印を伴う作品の丸印は実測で7.3〜7.5mm程度になる。

実務的には、1915〜1989年の丸印については径を年代確定の根拠にしない。他の要素(併用されている版元印の型、版木の摩耗、紙、色)と突き合わせる材料の一つとして見る程度にとどめる。

なお印径をWeb上の画像で比較することはできない。表示サイズは自由に変わるため、並べても物理的な6mmと7mmの比較にはならない。実測値は原資料の記述を参照する。

具体例:《芝増上寺》

1925年の《芝増上寺》は、印と版木の摩耗を組み合わせて摺りの順序を追える代表例で、Moku Hanga が12段階の状態を整理している。要点を抜き出す。

1925年 ── 丸6mmのみ。主版・色版とも損傷がなく、摩耗が最も少ない。

1926年 ── 丸6mm+A1。印が2つ押される構成になる。

1926〜1928年 ── A1のみ。丸印が消え、摩耗がわずかに進む。

1928〜1930年 ── A1・A2が右余白に。主版の階段の線が切れ始め、着物の裏地の色が変わる。

1930〜1932年 ── B+シリーズ角書。右上の木に新しい損傷。

1931〜1934年 ── C1。完全にオリジナルの版木による最後の状態。

1934〜1937年 ── D。傘の版木が新しくなり、手すりに損傷が出る。

〜1942年 ── C2。空の版木の摩耗が進む。

1946年 ── 渡辺個人印。顔料がガッシュに替わり、胡粉が使われる。

1946年以降 ── 6.5mm前後、または印なし。

《芝増上寺》1925年の状態。版木に損傷がなく、松の幹や階段の線が最も鋭い。押されている版元印は丸6mmのみ。出典:Moku Hanga「States of Hasui's Zojoji Temple in Shiba」
《芝増上寺》1925年の状態。版木に損傷がなく、松の幹や階段の線が最も鋭い。押されている版元印は丸6mmのみ。出典:Moku Hanga「States of Hasui's Zojoji Temple in Shiba」
同じ作品の左下を拡大したもの。「芝増上寺」の題字の右にある小さな円が丸ワタナベ印。全図では6mm程度にしかならず、実物でもルーペが要る大きさ。出典:Moku Hanga「States of Hasui's Zojoji Temple in Shiba」
同じ作品の左下を拡大したもの。「芝増上寺」の題字の右にある小さな円が丸ワタナベ印。全図では6mm程度にしかならず、実物でもルーペが要る大きさ。出典:Moku Hanga「States of Hasui's Zojoji Temple in Shiba」
同 1930〜1932年の状態。右余白に「版元渡邊版畫店」(B印)が縦書きで入る。右上の木に新しい損傷が出ている。出典:Moku Hanga「States of Hasui's Zojoji Temple in Shiba」
同 1930〜1932年の状態。右余白に「版元渡邊版畫店」(B印)が縦書きで入る。右上の木に新しい損傷が出ている。出典:Moku Hanga「States of Hasui's Zojoji Temple in Shiba」
同 1946年の状態。顔料がガッシュに替わり、色の出方が戦前と変わる。版元印は渡辺個人印。出典:Moku Hanga「States of Hasui's Zojoji Temple in Shiba」
同 1946年の状態。顔料がガッシュに替わり、色の出方が戦前と変わる。版元印は渡辺個人印。出典:Moku Hanga「States of Hasui's Zojoji Temple in Shiba」

印の型が変わる順序と、版木の摩耗が進む順序が一致している。だからこの2つを突き合わせれば摺りの順序を追える。

逆に言えば、印だけを見て初摺と判断することはできない。Moku Hanga も、印より版木の摩耗のほうが決定的だと結論している。なお《芝増上寺》は人気作だけに贋作印も多く、過去20年の市場では20枚に1枚程度に偽の印が押されていたという調査もある。

戦後の丸印

戦後は再び丸い「ワタナベ」印が主要な版元印になる。ここで注意がいるのは、戦後の丸印にも6mm前後のものがあることと、前述のとおり摺った時期と押印の時期が一致しないことである。戦前に摺られて在庫にあった作品が、戦後に押印されて世に出た例が確認されている。

戦後の押印。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」
戦後の押印。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」

平成・令和の印

I(1989〜2019年)

赤色。ひらがなで「わたなべ」。平成の印で、彫り直した版木による摺りに押される。

I(1989〜2019年)赤・ひらがな「わたなべ」。平成の印。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」
I(1989〜2019年)赤・ひらがな「わたなべ」。平成の印。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」

J(2012年〜)

「版権所有渡辺章一郞」。新しく彫った版木による復刻を示す。

J(2012年〜)「版権所有渡辺章一郞」。新しく彫った版木による復刻を示します。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」
J(2012年〜)「版権所有渡辺章一郞」。新しく彫った版木による復刻を示します。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」

K1(2019〜2024年)/K2(2025年1月〜)

黒の令和印。K1は版元印を伴わず、K2は版元印を伴う。いずれも彫り直した版木による。

左がK1(2019〜2024年)、右がK2(2025年1月〜)。黒の令和印。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」
左がK1(2019〜2024年)、右がK2(2025年1月〜)。黒の令和印。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」

実用的な結論として、平成印や令和印がある作品は巴水生前に摺られたものではない。ここは迷う余地がない。ただし逆は成立しない。平成印がないことは初期摺の保証にならないし、「古い版木」が「当初のオリジナル版木」と同義とも限らない。

後摺と復刻は別物

購入時に効いてくる区別なので分けて書く。

後摺は、以前から存在する版木を使って後年に摺ったもの。版木は同じでも摩耗が進んでいるため、線は甘くなる。

復刻は、新しく版木を彫り直して作ったもの。図柄は同じでも、版木そのものが別物である。

J印・K1・K2印は復刻を示す。I印も彫り直した版木に押される。価格が大きく違うので、売り文句が「後摺」なのか「復刻」なのかは確認したほうがいい。

なお復刻が常に格下とは限らない。1920〜30年代に起こされた版木は摩耗が激しく、そこから摺った後摺より、新しく彫り直した版木による復刻のほうが摺りとして良い場合がある。

表面の印だけで判断しない

年代を詰めるときは、渡辺印以外にも見るものがある。

摺師印が併記されている場合、版元印と突き合わせる材料になる。裏面に渡辺版画店の住所ラベルが残っていることもあり、店舗の所在地は関東大震災前の京橋、その後の日吉町、1930年以降の銀座と移っているため、ラベルの住所も手がかりになる。額装されていると裏が見えないが、可能なら確認する価値はある。

そして最終的には、版木の摩耗、紙、摺りの精度、ぼかしの入り方、色の状態を見る。印はそのうちの一要素にすぎない。

押さえておく点

渡辺印は一種類ではなく、丸印のほかに版権印・版元印が多数ある。印の型から摺りの年代をある程度絞れるが、使用期間は互いに重複する。印は摺った時ではなく在庫から出す時に押されたため、戦前に摺られ戦後に押された例がある。

6mm印だから生前摺とは限らず、戦後にも6mm前後の丸印がある。7mmという数字だけで没後摺とも断定できない。一方、平成印・令和印があれば生前摺ではない。ここは判断しやすい。

後摺と、新しい版木による復刻は別物である。そして印だけでなく、版木の摩耗・紙・摺り・裏面ラベルを併せて見る。

従来の分類(1982年)

現在の分類の出発点になったのが、渡辺規による1982年の分類表である。A〜G の版元印に加え、摺師印と震災前の住所ラベルまで一覧になっている。

渡辺規による1982年の分類表「別表Ⅲ 版権所有・渡邊版表示印型表」。現在の分類はこれを新資料で更新したもので、記号の対応は一致しません。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」
渡辺規による1982年の分類表「別表Ⅲ 版権所有・渡邊版表示印型表」。現在の分類はこれを新資料で更新したもので、記号の対応は一致しません。出典:Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」

現行の Moku Hanga の分類はこれを新資料で更新したものなので、記号の対応は一致しない。海外市場で使われてきた Pachter らの分類とも別系統である。年代を詰めるときは、どの分類体系の話をしているのかを必ず確認する。

参照資料

年代分類は Moku Hanga の整理に基づく。同サイトの分類は、多数の作品と印のデータベース化、版木の摩耗の経年データ、来歴が確認できる作品をもとに従来の分類を再検討したものである。海外市場で長く使われてきた Pachter らによるA・B・C……の分類とはアルファベットの対応が一致しない場合があるため、本記事では現在の Moku Hanga の分類を基準とした。

Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」 https://moku-hanga.org/watanabe/

Moku Hanga「States of Hasui's Zojoji Temple in Shiba」 https://moku-hanga.org/kawase-hasui/zojoji-states/

本記事に掲載した印影画像は、いずれも上記 Moku Hanga「How to date Watanabe publisher seals」からの引用である。