川瀬巴水(1883〜1957)は、日本各地を旅して風景を描き、それを木版画として残した版画家である。
「今の私に何が好きだと聞かれましたら即座に旅行!と答へます」。巴水は自ら、そう書いている。
木版画を手がけたのは、35歳になった1918年のことである。その仕事は「新版画」と呼ばれる。大正に始まった新しい木版画で、江戸の浮世絵の木版の技術を受け継いでいる。絵師が原画を描き、彫師が版木を彫り、摺師が紙に摺る。この分業で作る。
画家への遠回り
明治16年(1883)5月18日、川瀬巴水は東京・芝の露月町、現在の新橋五丁目に生まれた。本名は文治郎。糸組物職人の家の長男で、生家は芝の寺、増上寺の目と鼻の先にあった。
幼いころは体が弱く、栃木県の塩原に住む伯父・伯母のもとで過ごした。
早くから画家を志し、14歳ごろに日本画を習い始めた。しかし親族の反対で1〜2年でやめ、家業の組糸の仕事に就いた。
やがて父の事業が傾き、家業は妹夫婦に託された。これで巴水に、絵の道がひらけた。
25歳ごろ、日本画家の鏑木清方に入門を願い出る。清方とは以前から顔なじみだった。しかし返事は厳しかった。「画家になるには年をとりすぎている」と言われたと伝わる。
清方の勧めで、巴水は洋画の研究所に通った。写生の力はそこで身につけたが、洋画そのものにはなじめなかった。
明治43年(1910)、27歳になった巴水は、ようやく清方への入門を許された。
「巴水」という号を付けたのも清方である。清方は、巴水の小学校を鞆小学校だと思っていた。その「鞆」と、川瀬の「川」にちなんで付けたという。実際に入学したのは桜川小学校で、清方の思い違いだった。
塩原から始まった木版画
清方の門下には、巴水より年下ながら、すでに優れた腕を見せていた伊東深水がいた。
大正7年(1918)、巴水はその深水が手がけた近江の風景の木版画を見て、版画に興味を持った。そして、版元(版画の出版元)の渡邊庄三郎の店を訪ねた。
大正7年の秋、巴水は最初の木版画として、三点からなる「塩原三部作」を出した。その一枚が《塩原おかね路》である。
塩原は、巴水が幼いころを過ごした土地である。この地を選んだことを、本人はこう書いている。
塩原は私を非常に可愛がつて呉れました、亡き伯父夫婦が丗余年の永い生活をして居りました為め、ちひさい頃から自然行く機会が多く、従つていろいろと思ひ出も深く懐かしい故郷のやうに思はれます。板画の第一歩に此の塩原を選びましたのは、私として頗る意義ある事と存ぜられます
この三部作から摺りを受け持ったのが、摺師の斧銀太郎だった。二人は、のちに《増上寺の雪》を作る1953年まで、36年にわたって組んだ。
分業で作る新版画には、批判もあった。自分で描き、彫り、摺る「創作版画」の側からは、時代遅れだと見られていた。
旅に出て、風景を版画にする
旅立ちはいつも「銀座散歩の延長ぐらいの軽い気持」で、品川を過ぎると家のことはもう頭に無かった、と巴水は書いている。
旅先では思い切ったこともした。白馬岳には下駄で登り、下山したあとの下駄には指の跡が残っていたという。
写生には手間をかけた。近眼だったので、間違いのないよう、夕暮れや夜の景色は、昼と夜に何度も同じ場所で写生したという。
旅を主題にした最初の連作は、大正8年(1919)の夏から翌年の秋にかけて、青森・宮城・千葉・石川・栃木を巡って描いた16図である。
同じころ、三菱が贈答用に、深川の別邸を描く版画集を企画した。仕事は初め清方に持ち込まれたが、風景なら巴水が適任だと清方が推し、巴水が引き受けた。版画は国内だけでなく海外へも配られ、巴水の名が広く知られるきっかけになった。
大正9年(1920)12月、銀座の三十間堀川の雪景色を版画にしたときのことである。川沿いを渡邊と歩いていた巴水が、雪のなかで写生を始めた。渡邊は、巴水が筆を置くまで黙って傘を差しかけていたという。
巴水は、版画を作るようになって風景の見え方が変わったと語っている。
版画を作るようになってからは、版画としての出来上りを予想して、一木一草も除けなくてよいところを選んで写生するようになった。そのうち見る風景が版画に見えるようになって来た
増上寺の門を初めて描いたのは、大正11年(1922)である。1月18日、大雪の日の夕暮れに門前で写生し、その下絵を描いた。
焼けた写生帖と、渡邊の出した旅費
大正12年(1923)9月、関東大震災が起きた。
家は焼け、それまで描きためた写生帖も失った。震災の夜は、家族と増上寺の境内に逃げ込んで明かしたという。
渡邊もまた店を焼かれ、それまでに作った版木と版画のほとんどを失っていた。それでも渡邊は、巴水をこう励ました。
大丈夫、版画はこれから益々盛んになる
渡邊は自ら旅費を出し、焼け残った作品を持たせて、巴水を写生の旅に送り出した。大正12年10月22日に出発し、木曽路から北陸、中国地方へと回って、帰ったのは翌年の2月3日。生涯で最も長い旅になった。
金沢で開いた即売会の売れ行きは良くなかった。売れたのは16枚で、買ったのは土地に住む外国人だったと、巴水は渡邊への手紙に書いている。
それでも写生は進んだ。12月30日、広島から渡邊へ送った手紙には「写生いろいろ出来候へ共」とある。どれを版画にするかは、帰ってからよく相談したい、と続く。
東京二十景と「旅情詩人」
大正14年(1925)、巴水は震災後の東京を描く連作「東京二十景」を始めた。その第一作に選んだのが、増上寺の門である。
《芝増上寺》は、巴水の作品のなかで最も多い3千枚が摺られたという。ただ、渡邊の孫は、晩年の祖父の自慢話を研究者がそのまま文章にしたのではないかと疑っている。
翌年の《新大橋》は、震災を免れた近代の橋を描いている。
昭和5年(1930)、巴水は東京の馬込(いまの大田区)に家を建てて移り住んだ。同じ年の《馬込の月》は、濃い青が印象に残る一枚で、「巴水ブルー」の代表作と目されている。描かれた馬込の三本松は、いまは無い。その名が交番とバス停に残るだけである。
この年、伊東深水は巴水の展覧会のパンフレットで、巴水をこう評した。
川瀬巴水君は実に清親以後の風景版画家として唯一の存在です
清親は、明治の版画家、小林清親のことである。深水は同じ文で、こうも書いている。
「旅情詩人」私は敢て君を斯ふ呼びたいのです。実際君程若い時から旅を好んだ人はありません。
海を渡った版画
1930年3月、米国オハイオ州のトレド美術館は、新版画の画家10人の作品を集めた展覧会を開いた。《芝増上寺》と《新大橋》も並び、《芝増上寺》はその年のうちに、欧米の美術雑誌にも大きく載った。
1931年、ハーバード大学の学生だったロバート・ムラーが、ニューヨークの店の窓に巴水の《清洲橋》を見つけた。月5ドルの小遣いで、その一枚を買った。ここから、約4,500点に及ぶ版画のコレクションが始まった。
ムラーは1940年、深水の家で巴水本人に会い、物静かで落ち着いた人物だと感じた。
巴水が世を去ったあと、アップルの共同創業者スティーブ・ジョブズも、巴水の版画にひかれた一人になった。10代のころ、友人の家の居間で新版画に出会った。友人の母が別の版画家の話をしていたとき、ジョブズが「ノー、巴水こそがベストだ!」と言い返したこともあったという。
ジョブズは新版画を43点手に入れ、そのうち25点が巴水だった。銀座の画廊で多くの作品を買っていたという。
「作家をみとめよ」
巴水の版画は、浮世絵師の歌川広重に似ていると言われることがあった。本人は、広重をまねてはいないと書いている。
広重の風景画を模倣追随などしません。広重よりはどちらかと言へば、明治の小林清親の方が好きです
版元の渡邊との仲も、いつも穏やかだったわけではない。昭和11年(1936)9月、巴水は「作家をみとめよ」と言うために渡邊の店へ出向いた。ところが渡邊は寝ていて、話ができなかった。
翌日、巴水はあらためて渡邊に会い、「いよいよ多年の製作上のうつぷんをもらし」と日記に書いた。話は渡邊に通じ、風景の版画集の刊行を本格的に取り決めた。
再び増上寺へ
昭和19年(1944)8月、巴水は塩原へ疎開した。幼いころを過ごし、最初の版画の題材にした土地である。疎開中は、画料を米で受け取ることもあった。
昭和23年(1948)に東京へ戻ってからも、制作は続いた。ただ、1か月を超える長い写生旅行は、この年の旅が最後になった。
昭和27年度(1952年度)、文化財保護委員会が木版画の技術を記録に残す事業で、美人画を深水が、風景画を巴水が受け持つことになった。
描く場所はなかなか決まらず、霊岸島や箱崎を歩いたが、気に入らずに帰った日もあった。最後に選んだのは、また増上寺の門だった。
こうしてできたのが、昭和28年(1953)の《増上寺の雪》である。三十年あまり前の《雪の増上寺》とは別に、新しく描き起こした。版木は9枚、摺りは42度を重ねた。原画や版木、摺りの順を示す資料は、いまも東京国立博物館に収められている。
この事業のあと、新版画の絵師・彫師・摺師を人間国宝に指定することも議論されたが、指定は見送られた。
九枚目の線描き
最晩年の巴水は、好きだった旅に出ることもなく、昔の写生帖をもとに版画を作ることが多くなった。
最後に取りかかったのは、《平泉金色堂》である。昭和32年(1957)5月、原画の線描きを始めた。構図は、昭和9年(1934)に平泉で描いたスケッチによる。
線描きは何度も描き直した。9枚目を描いた日の日記にはこうある。
版画『ノイローゼー』… …これでおしまいにしたいものだ…
スケッチには、二人の旅人が描かれていた。原画では、それを一人の修行僧の姿に描き変えている。
線描きを渡邊の店に届けてからおよそ半年後の昭和32年11月、巴水は胃がんでこの世を去った。《平泉金色堂》の完成を見ることはなかった。版画は渡邊が仕上げ、巴水と親しかった人々に配った。
出典
- 大田区立郷土博物館 学芸員コラム「川瀬巴水」(全15回)
- 小山周子「新版画と伝統―「増上寺の雪」の制作と戦後の状況について」『東京都江戸東京博物館紀要』第3号、2013年
- 服部郁美「川瀬巴水の画業」『浮世絵芸術』153号、2007年
- 渡邊章一郎「渡邊版画店に伝わる川瀬巴水の逸話」『浮世絵芸術』153号、2007年
- 小山周子「新版画の版元と海外コレクターの交流」『浮世絵芸術』159号、2010年
- 『日本美術年鑑』昭和33年版の物故記事
- 町田市立国際版画美術館「浮世絵風景画―広重・清親・巴水 三世代の眼―」資料、2021年
- アーサー・M・サックラー・ギャラリーのムラー・コレクションに関する発表、2004年
- Asian Art Newspaper「Early Modern Japanese Prints: Fresh Impressions」2013年
- トレド美術館の所蔵記録
- インターネットミュージアムによる平塚市美術館「川瀬巴水展」とSOMPO美術館「川瀬巴水 旅と郷愁の風景」の紹介、2021年
- 週刊アスキーによるSOMPO美術館展の紹介記事
- 楢崎宗重「川瀬巴水 版画とその生涯」
注
- 巴水の言葉は、大田区立郷土博物館のコラムと小山・服部の論文が引く日記・書簡・『川瀬巴水創作板画解説』(1921年)・「半雅荘随筆」(1935年)と、楢崎宗重「川瀬巴水 版画とその生涯」が引く談話からの引用である。
- 没日は11月27日とする典拠(大田区立郷土博物館、服部、渡邊)と11月7日とする典拠(事典類)があり、絶筆が配られたのは告別式とも百か日の法要とも伝わる。
- 巴水の版画に押された版元の印から摺りの年代を読む話は、「川瀬巴水の「渡辺印」──版元印から摺りの年代を読む」に書いた。
図版
- 川瀬巴水《塩原おかね路》 — Public domain / Wikimedia Commons出典
- 川瀬巴水《三菱深川別邸の図 大泉水の全景》 — Public domain / Wikimedia Commons出典
- 川瀬巴水《雪の増上寺》 — Public domain / Wikimedia Commons出典
- 川瀬巴水《東京二十景 芝増上寺》 — Public domain / Wikimedia Commons, Rijksmuseum出典
- 川瀬巴水《東京二十景 新大橋》 — Public domain / Wikimedia Commons出典
- 川瀬巴水《東京二十景 馬込の月》 — Public domain / Wikimedia Commons, 国立国会図書館, National Diet Library Digital Collections: Persistent ID 2586549出典
- 川瀬巴水《清洲橋》 — Public domain / Wikimedia Commons, 国立国会図書館, National Diet Library Digital Collections: Persistent ID 2586549出典
- 川瀬巴水《平泉金色堂(絶筆)》 — Public domain / Wikimedia Commons出典
この記事に出てくる作家

川瀬巴水
Hasui Kawase
1883–1957
