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小林清親

小林清親

こばやし きよちかKobayashi Kiyochika
229 Artworks

小林清親(1847〜1915)は、ガス灯や月明かりに照らされた明治の東京を描いた浮世絵師である。輪郭線をほとんど使わず、光と影を捉えた木版画は「光線画」と呼ばれる。

江戸本所御蔵屋敷に下級役人の子として生まれ、幕臣として伏見の戦いに参戦した。幕府が倒れると静岡へ移り、住居や職業を転々としたのち、明治7年(1874年)に上京して画業に専念した。

明治9年(1876年)1月、両国吉川町の出版元、大黒屋の松木平吉から三枚続の版画を出した。同年8月には東京新大橋雨中図など5点を同じ大黒屋から刊行し、光線画の仕事が始まった。

翌年、第一回内国勧業博覧会に出した猫と提灯は、35版を摺り重ねた版画で、博覧会では「製造物」として出品された。

光線画の出版元は、大黒屋だけではない。確認された記録の範囲では、1877〜78年には松木平吉の版があり、1879〜81年は福田熊次郎の版が大半を占める。夜景のほとんども福田から出た。

明治14年(1881年)1月26日、神田から出た火が両国に及ぶ大火となった。プリンストン大学美術館の記録によれば、清親の家も焼けたという。清親は夜に外へ出て火事を写生し、それをもとに版画を3点作った。

同年を最後に東京名所図の制作から離れ、翌年8月からは「団団珍聞」に毎号、時局の風刺画を描いた。1884〜85年の「武蔵百景」の版元は小林鉄次郎で、大黒屋ではない。

日清戦争では戦争錦絵を多数描いたが、出版元は作品ごとに異なる。大黒屋から出たのは、骨皮道人の文を添えた「日本万歳 百撰百笑」などである。50歳を過ぎたころからは、肉筆画に腕をふるった。

明治末には、東京名所図は忘れられていた。大正2年(1913年)に木下杢太郎が論じ、永井荷風も「日和下駄」で「明治初年の東京を窺い知るべき無上の資料」と評した。

清親は大正4年(1915年)11月28日に没した。その後も松木平吉は清親の下絵をもとに、「清親風景真画頒布会」の版画を刊行した。

「最後の浮世絵師」という呼び名について、練馬区立美術館の学芸員は、清親が錦絵にこだわり続けたことを理由に挙げている。

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