
歌川広重
雨、雪、夕靄——広重の画面には、いつも空気が満ちている。人はしばしば背を向け、傘の下に顔を隠し、宿場の辻を足早に通り過ぎる。名所を描きながら、その名所を主役にしなかったところに、この絵師の特異な眼があった。
歌川広重(1797〜1858)は、定火消同心・安藤源右衛門の子として、八代洲河岸の定火消屋敷に生まれた。文化6年(1809年)、父の職を継いで自らも火消同心となる。武家奉公のかたわら絵を志し、文化8年(1811年)頃、まず歌川豊国の門を叩くが門生満員で断られ、歌川豊広に入門した。翌年、師の一字「広」に自らの一字を重ねて広重を名乗る。出発点は風景ではない。文政期の広重は《外と内姿八景》のような美人画に、役者絵、三枚続の武者絵と、歌川派の絵師が食べていくための画題をひと通り手がけている。売れたとは言いがたい。しかしこの不遇の十数年に、狩野派や南画の筆法、そして西洋の透視図法を取り込んだ浮絵までを貪欲に学んだことが、のちの風景画の下地になった。
天保2年(1831年)頃の《東都名所》で風景に活路を見出し、天保4年(1833年)頃に版行された《東海道五拾三次》が決定的な転機となる。幕府の八朔御馬献上の行列に加わって京へ上り、その写生をもとに描いたと伝わるが、この話の拠りどころは、三代広重の談話を書き留めた一節しかない。宿場を地誌の記録としてではなく、旅人の足取りと季節の移ろいの舞台として捉える——このまなざしが全五十五図を貫く。日本橋 朝之景の夜明けに始まり、蒲原 夜之雪では、実際には雪の少ない土地にあえて深雪を降らせ、音の消えた白い闇のなかを三人の旅人が黙々と歩む。庄野 白雨では斜線の夕立が坂を叩き、駕籠かきが駆け下る。虚構をためらわず、そのかわり空気の実感だけは決して手放さない——広重という絵師の本質がここにある。摺りもまた主役で、ベロ藍(プルシアンブルー)の階調、空と水をひと刷毛で染める一文字ぼかし、板に刻んだ無数の雨の細線が、版画にしか出せない天候をつくった。初摺と後摺では空の色も雲の形も変わるため、同じ図でも一枚ごとに別の時間が流れる。
遠近法への関心は生涯続いた。若い頃に学んだ浮絵の透視図法——消失点をもつ西洋流の奥行き——を、広重は種明かしのようには使わず、低い視点と大胆な近景で画面の奥に沈めた。その方法が極まるのが晩年の名所江戸百景である。大はしあたけの夕立は橋板を叩く雨の細線と対岸の墨色だけで夕立の一部始終を語り、亀戸梅屋舗は臥竜梅の幹を画面いっぱいに断ち切って、紅梅の園をその隙間から覗かせる。手前を巨大に、遠くを小さく——この近像型の構図は、ゴッホがこの二図を油彩で模写したことで、西洋絵画の歴史にまで入り込んだ。
東海道の成功後は、渓斎英泉と分担した中山道の木曽海道六拾九次に、月夜の宿場をしんと照らす木曽海道六拾九次之内 洗馬のような静かな傑作を残し、《近江八景》《六十余州名所図会》、竪絵の東海道と、風景の揃物は生涯で二十を超えた。その合間に広重がもうひとつ愛したのが生きものである。花鳥版画は数百図におよび、月に雁の満月を横切る三羽の雁、魚河岸から届いたばかりのような《魚づくし》の鯛や海老には、風景画と同じ湿度の空気が流れている。月に雁は戦後の1949年に切手の図案となり、原画を知らない世代の目にまで刷り込まれた。
安政4年(1857年)、還暦を過ぎた広重は三枚続の大画面に挑む。雪の木曾路之山川、月の武陽金沢八勝夜景、花(渦潮)の阿波鳴門之風景——雪月花の三部作は、宿場の賑わいから出発した絵師が最後にたどり着いた、人影のほとんど無い純粋風景だった。
海を越えた影響は大きい。ゴッホの模写二点のほか、ホイッスラーの《青と金のノクターン——オールド・バタシー・ブリッジ》は、1889年にはもう広重の夜景と並べて論じられている。モネは生涯に二百点を超える浮世絵を蒐集した。西洋が「ジャポニスム」と呼んだ潮流の中心に、この火消同心あがりの絵師がいた。
安政5年(1858年)9月6日、広重は62歳で世を去った。江戸に流行したコレラにかかったと伝えられる。描き続けた名所江戸百景は、広重の署名のある図が118にのぼり、没後に二代目歌川広重が1図を加えた。死絵に記された辞世は「東路へ筆をのこして旅のそら西のみ国の名ところを見む」。旅を描き続けた絵師にふさわしい、最後の一句である。
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