団体
青年同盟
せいねんどうめい
青年同盟(せいねんどうめい)は、ペテルブルクの美術家の団体で、ロシア語では Союз молодёжи といい、「青年連盟」とも訳される。ニコライ・クリビンの「三角形」を離れたミハイル・マチューシンやエドゥアルド・スパンディコフらが1909年に組織を始め、1910年2月16日に、ロシア・アヴァンギャルドの美術家の団体として初めて登録された。収集家レフキー・ジェヴェルジェーエフの資金に支えられ、1914年までにモスクワの「ダイヤのジャック」や「ろばの尻尾」の画家も招いて7回の展覧会を開き、1913年には未来派の『ウラジーミル・マヤコフスキー』と『太陽の征服』を上演した。
出典: 『ロシア・アヴァンギャルド百科』オンライン版「«Союз молодёжи»」(И・И・アルスカヤ、2026-10-12 取得) https://rusavangard.ru/online/history/soyuz-molodyezhi/、ru.wikipedia「Союз молодёжи (общество художников)」(2026-06-07 版、2026-10-12 取得) https://ru.wikipedia.org/wiki/Союз_молодёжи_(общество_художников)、ロシア美術館(ヴァーチャル・ロシア美術館)「Выставка "Союз молодежи"」(2019年の展覧会の案内、2026-10-12 取得) https://rusmuseumvrm.ru/data/events/2019/07/obschee._vistavka_soyuz_molodezhi/index.php、『ペテルブルク百科』「"Союз молодежи", общество」(А・В・クルサノフ、2026-10-12 取得) https://encspb.ru/object/2855701383、コトバンク「ロシア・アバンギャルド」(日本大百科全書(亀山郁夫)、2026-10-12 取得) https://kotobank.jp/word/ろしああばんぎやるど-3176265
年表・沿革
1909
- 4月、ニコライ・クリビンの「三角形」を離れたシコーリニク、スパンディコフ、マチューシン、エレーナ・グロらが会を組織し始め、11月に最初の委員会を立てた。
1910
- 2月16日に会として登録され、3月8日からペテルブルクのモルスカヤ通りで最初の展覧会を開いた。
1911
- 4月の第2回展に、モスクワの「ダイヤのジャック」の画家とラリオーノフの一派が別室で加わった。
1912
- 4月、ロシアで初めての現代美術の定期刊行物とされる論集『青年同盟』の第1号を出した。
1913
- 12月2日から5日、ペテルブルクのルナ・パルク劇場で、マレーヴィチ、シコーリニク、フィローノフの舞台美術により、未来派の『ウラジーミル・マヤコフスキー』と『太陽の征服』を上演した。
1914
- 1月27日にマレーヴィチが退会を告げてタトリンらも続き、第一次世界大戦も重なって、展覧会などの活動は止まった。
1917
- 春、ジェヴェルジェーエフらが会の再建を試み、シャガールやアリトマン、ポポーワらを会員に迎えたが、目立った活動にはならなかった。
1919
- スパンディコフ、フィローノフ、シャガールらが「青年同盟」の会員として「第1回国立自由美術展」に出品したのが、会の最後の記録になった。
関連人物
- 発起人 ミハイル・マチューシン 1909〜
美術家・作曲家。1910年の初めに一度会を離れ、1912年から1913年に変わるころ会計に選ばれた。1913年の『太陽の征服』の音楽を書いた
- 発起人 エレーナ・グロ 1909〜
マチューシンの生涯の伴侶。1910年の初めにマチューシンとともに会を離れた。1913年からの最後の展覧会に遺作が並んだ
- 書記 ヨシフ・シコーリニク 1909〜
「三角形」を離れた発起人の一人で、会の書記を通して務めた。1913年の未来派の上演で舞台美術を受け持った
- 初代会長 エドゥアルド・スパンディコフ 1910〜
「三角形」を離れた発起人の一人で、1910年から1913年まで会長を務めた
- 後援者・会長 レフキー・ジェヴェルジェーエフ 1910〜
収集家。1910年1月に会のアトリエの資金を出し、会計をへて1913年1月から会長を務め、会の活動の費用を支えた
- 理論家 ヴォルデマール・マトヴェイ 1910〜
筆名ウラジーミル・マルコフ。論集『青年同盟』に「新しい芸術の原理」を書き、会の出版で著書を出した。1914年に急死した
- 会員 パーヴェル・フィローノフ 1910〜
美術アカデミーの同窓のマトヴェイらに誘われて加わり、1913年の『ウラジーミル・マヤコフスキー』の舞台装置を手がけた。1914年に自分の工房を作って会を離れた
- 会員 オリガ・ロザノワ 1910〜
会の創設に加わり、1911年にペテルブルクへ移ってからはすべての展覧会に出品した。1912年から1913年に変わるころ役員に選ばれ、論集に「新しい創造の基礎と、それが理解されない理由」を書いた
- 会員 ウラジーミル・タトリン 1913〜1914
1911年からペテルブルクの展覧会に出品し、1913年1月3日、マレーヴィチ、アレクセイ・モルグノフとともに会員になった。1914年1月にマレーヴィチが退会を通知すると、まもなくモルグノフとともに退会を届け出た。
- 会員 ワルワーラ・ブブノワ
論集『青年同盟』にペルシア美術の文章と、イタリア未来派の画家たちの宣言の訳を寄せた。1919年、ジェヴェルジェーエフ、アリトマンとマトヴェイの遺著『黒人の美術』をまとめた
