団体
プロイセン芸術アカデミー
ぷろいせんげいじゅつあかでみー
プロイセン芸術アカデミー(ぷろいせんげいじゅつあかでみー)は、1696年にブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世(のちの初代プロイセン王フリードリヒ1世)がベルリンに創設した芸術のアカデミー。美術を教える学校であると同時に、会員の芸術家がつくる団体として宮廷に芸術の助言をし、のちに音楽と文学の部門も設けた。1920年から1932年まではマックス・リーバーマンが総裁を務めて近代美術をめぐる議論の場となったが、ナチス政権のもとで多くの会員が退会や除名に追い込まれた。第二次世界大戦後は東西ベルリンのアカデミーがその伝統を継ぎ、両者が1993年に一つになった今の芸術アカデミー(Akademie der Künste)へ続いている。
出典: Akademie der Künste 公式サイト「Geschichte」(2026-10-11 取得) https://adk.de/ueber-uns/akademie-geschichte、Akademie der Künste 公式サイト「Historisches Archiv」(2026-10-11 取得) https://adk.de/archiv-der-kuenste/abteilungen-fachbereiche/historisches-archiv、de.wikipedia「Preußische Akademie der Künste」(2026-06-28 版、2026-10-11 取得) https://de.wikipedia.org/wiki/Preußische_Akademie_der_Künste、コトバンク「フリードリヒ1世」(ブリタニカ国際大百科事典ほか、2026-10-11 取得) https://kotobank.jp/word/ふりーどりひ1世-3186181、コトバンク「リーバーマン」(日本大百科全書(野村太郎)・改訂新版 世界大百科事典(有川治男)・ブリタニカ国際大百科事典ほか、2026-10-11 取得) https://kotobank.jp/word/りーばーまん-3175523、ja.wikipedia「ベルリン芸術アカデミー」(2026-09-30 版、2026-10-11 取得) https://ja.wikipedia.org/wiki/ベルリン芸術アカデミー
年表・沿革
1696
- ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世が、絵画・彫刻・建築のアカデミー(Academie der Mahl-, Bild- und Baukunst)をベルリンに創設した。
1786
- 5月、プロイセンで初めての公開の美術展を開き、この年から1790年にかけて、会員ダニエル・ホドヴィエツキの働きで組織を改めた。
1907
- 1月、パリ広場の旧アルニム宮を改築した新しい本拠を、国際展とともに開いた。
1919
- ドイツ革命後の改革のなかで、エルンスト・バルラハやケーテ・コルヴィッツら近代の美術家を会員に迎えた。
1920
- 6月、マックス・リーバーマンが総裁に選ばれ、1932年まで務めた。
1933
- 2月、ナチス政権の圧力でケーテ・コルヴィッツとハインリヒ・マンが退会に追い込まれ、この年のうちにリーバーマンも会員と名誉総裁の座を退いた。
1937
- 7月、ナチスの美術観に合わない会員に退会を求める手紙を送り、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーやエミール・ノルデ、エルンスト・バルラハらがそれを受け取った。
1993
- 戦後に東西ベルリンでそれぞれ伝統を継いでいた二つのアカデミーが合わさり、今の芸術アカデミーになった。
関連人物
- 創設者 フリードリヒ1世 1696〜
ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世として創設し、1701年に初代のプロイセン王となった
- 会員、のち院長 ダニエル・ホドヴィエツキ 1764〜
1786年から展覧会を率いて改革を進め、1797年から1801年まで院長を務めた
- 院長 ヨハン・ゴットフリート・シャドウ 1816〜
彫刻家。1850年まで院長を務めた
- 会員 ケーテ・コルヴィッツ 1919〜
1933年2月、ナチス政権の圧力で退会に追い込まれた
- 会員 エルンスト・バルラハ 1919〜
彫刻家。1937年7月に退会を求める手紙を受け取った
- 総裁 マックス・リーバーマン 1920〜
1932年まで総裁を務め、のち名誉総裁。1933年、ナチスの文化政策に押されて退いた
- 会員 エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー 1931〜1937
1931年に会員となり、1937年7月に除名された。
- 文学部門の会員 ハインリヒ・マン
1933年2月、コルヴィッツとともに退会に追い込まれた
