団体
新分離派(ノイエ・ゼツェッシオン)
しんぶんりは
新分離派(しんぶんりは)は、1910年にベルリンで結成された美術家の団体で、原語はノイエ・ゼツェッシオン(Neue Secession)。マックス・リーバーマンが率いるベルリン分離派の展覧会で作品を落とされた画家たちが、ゲオルク・タッパートの呼びかけで集まり、マックス・ペヒシュタインを会長とした。ブリュッケの画家たちや、のちに青騎士を結成するミュンヘンの画家たちも加わり、1914年までに7回の展覧会を開いて、ドイツに表現主義を根づかせる大きな役割を果たした。
出典: ブランデンブルク門財団(マックス・リーバーマン・ハウス)「Liebermanns Gegner. Neue Secession und Expressionismus in Berlin」(2011年の展覧会、2026-10-11 取得) https://stiftungbrandenburgertor.de/veranstaltungen/liebermanns-gegner-neue-secession-und-expressionismus-in-berlin/、de.wikipedia「Neue Secession」(2025-02-20 版、2026-10-11 取得) https://de.wikipedia.org/wiki/Neue_Secession、新ドイツ人名事典「Pechstein, Hermann Max」(エファ・クランバッハ、20巻、2001年、2026-10-11 取得) https://www.deutsche-biographie.de/gnd118592335.html#ndbcontent、コトバンク「ゼツェッシオン」(改訂新版 世界大百科事典(有川治男)、2026-10-11 取得) https://kotobank.jp/word/ぜつえつしおん-3230056、ja.wikipedia「新分離派」(2026-09-05 版、2026-10-11 取得) https://ja.wikipedia.org/wiki/新分離派
年表・沿革
1910
- 4月21日、ベルリン分離派の年次展の審査で多くの作品が落とされたのを機に、ゲオルク・タッパートの呼びかけで結成された。
- 5月15日、ベルリンの画廊マクシミリアン・マハトで、ベルリン分離派に落選した作家の展覧会を開き、ブリュッケの画家たちもそろって出品した。
1911
- 11月18日、初めて自前の会場で開いた第4回展にミュンヘン新芸術家協会の画家たちの作品も並び、会の展覧会でもっとも重要なものになった。
- 年末の役員選挙で会長に再選されなかったペヒシュタインが会を離れ、ブリュッケの画家たちもあとに続いた。
1914
- 第一次世界大戦が始まるまでに7回の展覧会を開き、そのまま静かに活動を終えた。
1918
- 元会員のタッパート、ペヒシュタイン、モーリッツ・メルツァー、ハインリヒ・リヒター=ベルリンらがベルリンで11月グループを結成した。
2011
- ベルリンのマックス・リーバーマン・ハウスで、かつて会の展覧会に並んだ作品を集めた展覧会「リーバーマンの敵対者たち(Liebermanns Gegner)」が開かれた。
関連人物
- 発起人 ゲオルク・タッパート 1910〜
落選を機に結成を呼びかけ、議長や書記として会を運営した
- 会長 マックス・ペヒシュタイン 1910〜
1911年末に再選されず、会を離れた
- 創立会員 アーサー・シーガル 1910〜
1912年に会を離れた
- 創立会員 ハインリヒ・リヒター=ベルリン 1910〜
- 創立会員 モーリッツ・メルツァー 1910〜
- 創立会員 セザール・クライン 1910〜
- 創立会員 オットー・ミュラー 1910〜
最初の展覧会でブリュッケの画家たちと知り合い、ブリュッケにも加わった
- エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー 1910〜1912
ベルリン分離派に落選したペヒシュタインらが1910年に結成し、「ブリュッケ」の会員も連帯して加わった。1912年、ペヒシュタインの除名に続いて「ブリュッケ」としてそろって退いた。
