
窪俊満
錦絵といえば紅である。役者の唇、遊女の襦袢、その一点の紅がなければ江戸の版画は成り立たない——はずだった。窪俊満(宝暦7年/1757年〜文政3年/1820年)は、その紅をあえて捨てた絵師である。「紅嫌い(べにぎらい)」と呼ばれるこの選択、鮮烈な赤を退けて藍・墨・紫・雲母のうすい階調で画面を締めるやり方に、この人の醒めた美意識がまるごと表れている。華やぎではなく、静けさで見る者を捉えようとした。
絵の出発点は浮世絵ではなかった。はじめ国学者にして沈南蘋風の画も能くした楫取魚彦に学び、春満と号している。師が世を去った天明2年(1782年)ごろ、北尾重政の門に転じて北尾姓を継ぎ、画名を俊満と改めた。もっとも、その美人画に流れているのは重政の律儀な描線よりも、当時江戸を席巻していた鳥居清長の八頭身——すらりと背の高い、健康な女性像の呼吸である。俊満は師の型を守るより、時代のいちばん新しい理想像を素早く吸い込んだ。
しかし俊満の真骨頂は市販の錦絵にはない。寛政2年(1790年)ごろ、彼は商業版画の第一線から静かに退き、狂歌連の注文で刷る贅沢な私家版——摺物へと軸足を移した。狂歌は石川雅望に学び、みずから判者を務めるまでになる。摺物とは、狂歌の一首を絵で受けとめる小宇宙であり、空摺り・きめ出し・雲母摺り・金銀の粉を惜しみなく使える、いわば工芸としての版画だった。生涯に手がけた摺物は五百点を超えるという。晩年の砂洲の五羽の鶴(1816年頃、チェスター・ビーティー図書館)は、余白と抑えた色数だけで気品を成立させた、紅嫌いの絵師の到達点である。
狂歌師・戯作者としての名も高く、葛飾北斎・喜多川歌麿・鳥文斎栄之らの版画に自作の歌を寄せた。沈金彫や貝細工の技にも通じ、その器用さは一絵師の枠にとどまらない。作品は東京国立博物館、メトロポリタン美術館、大英博物館などに収められている。
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