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鳥文斎栄之

鳥文斎栄之

ちょうぶんさいえいしChōbunsai Eishi
44 作品

五百石を食む旗本の家に生まれ、十代将軍徳川家治の絵具方をつとめた武士が、なぜ遊里の女を描く絵師になったのか——鳥文斎栄之(1756〜1829)の生涯は、この転身の一点にすべてが凝縮している。本名は細田時富。幼少より狩野派六代当主の御用絵師狩野栄川院典信に学び、その一字を拝領して「栄之」と号した。一七七二年に家督を継いで小納戸役に就き、一七八一年には家治の絵具方に召し抱えられる。だが一七八九年、三十四歳の若さで隠居し、筆一本の浮世絵師へと身を投じた。武家絵師が錦絵の世界へ下るという、江戸後期にあってきわめて異例の経歴である。

栄之の美人は、細く、丈高い。当時一世を風靡した鳥居清長の八頭身像に学びながら、栄之はそれをさらに引き伸ばし、十二頭身とも評される痩躯の女を淡い背景に静かに立たせた。清長の健康的な張りに対し、栄之の女はどこか高貴で、遊女や芸者を描いてなお媚びがない。旗本の血が画面ににじむ、と言いたくなる気品である。とりわけ、鮮やかな紅をあえて退けて淡色でまとめる「紅嫌い」の手法は、華やかさを競った喜多川歌麿の官能とは対極の、抑制された美意識を版画に定着させた。青楼美人六花仙 扇屋花扇や風流やつし源氏、《青楼芸者撰》にその静謐がよくあらわれている。歌麿と人気を二分したこの絵師のもとには、鳥橋斎栄里や鳥高斎栄昌、一楽亭栄水といった門人が集い、細田派を成した。

寛政の改革で錦絵が規制されると、栄之は一七九八年ごろから版画を離れ、肉筆画へ軸足を移す。一八〇〇年、隅田川の情景を描いた肉筆の巻物が後桜町上皇の御覧に供され、朝廷の高い評価を得た。東京国立博物館が蔵する《隅田川図巻》に見られる線の繊細さと、たっぷりとった余白の呼吸は、錦絵の栄之とはまた別の到達を示している。武士の教養と町絵師の情感がひとつの筆に溶け合った、稀有な作家であった。

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