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菱川師宣

菱川師宣

ひしかわもろのぶHishikawa Moronobu
12 作品

菱川師宣は、昭和23年(1948年)の記念切手にもなった見返り美人図の絵師である。江戸時代前期、本の挿絵を鑑賞用の一枚絵へと育てた浮世絵師でもあった。絹に筆で描く美人画から、墨で摺る絵本まで、その仕事は幅広い。

生まれは安房国保田、今の千葉県鋸南町。父は、刺繍や摺箔で布に模様を表す縫箔師だった。師宣も初めは縫箔を仕事にし、のちに絵画を専業とした。江戸へ出た時期には諸説があるが、寛文10年(1670年)ごろには浮世絵師として活動している。それ以前に誰から絵を学んだのかは、はっきりしない。

初めのうちは、名を出さずに版本の挿絵を描いていた。美術史家の小林忠によれば、寛文12年(1672年)刊の武家百人一首で、江戸の挿絵画家として初めて署名を入れた。その名は「絵師 菱川吉兵衛」。文章に添えられていた絵に、描いた人の名が入ったことになる。

生涯に手がけた絵本や挿絵本は100種を超える。出版元の鱗形屋から出た師宣の絵本には、大和絵つくし花鳥絵づくしなど、「絵づくし」と付くものが10点ほどある。鈴木淳の論文では、序文や刊語に出てくる「絵本」を、絵の手本という意味に読んでいる。古い物語や鳥や花を眺めて楽しみ、描くときにも使う本だった。やがて文章を頁の上部に置き、下部を絵に使う形式が整う。本の中で、絵の占める場所が広がっていった。

さらに絵は冊子を離れ、鑑賞用の一枚絵になった。ただし、師宣の一枚絵は、なお12枚一組の揃物として出されていた。師宣はしばしば「浮世絵の祖」と呼ばれてきた。浮世絵そのものの始祖かどうかには論議が残るが、浅野秀剛は、少なくとも浮世絵版画の祖だとする。

一方、師宣がしばしば署名に使ったのは「大和絵師」という肩書きだった。伝統的な大和絵の継承者を自認していたのである。その美人の型は、天和3年(1683年)に宝井其角が編んだ俳諧集『虚栗』で「菱川やうの吾妻俤」と詠まれた。肉筆画では門人たちと工房制作も行い、芝居町や遊里、上野や隅田川で遊ぶ人々を描いた。見返り美人図は、そのなかでも師宣自身の筆と推定される作品である。元禄7年(1694年)に江戸で没し、遺骨は故郷の保田に葬られたと考えられている。生年は今も確定していない。

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