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ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル

ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル

Jean-Auguste-Dominique Ingres
15 作品

「彼のオダリスクは椎骨が3つ多い」。批評家ケラトリーがグランド・オダリスクに向けたこの言葉は、女性の体を描くアングルの線が、厳密な写実とは異なることを言い当てている。古典派を代表するフランスの画家ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(日本では「ドミニク・アングル」とも呼ばれる)は、曲線の美しさを追い求めた。

1780年、南フランスのモントーバンに生まれた。彫刻や絵を手がけ、音楽を愛した父から素描と音楽を習った。トゥールーズでは絵を学びながら劇場のオーケストラで第2ヴァイオリンを弾き、生計を立てた。フランス語で本業のほかに打ちこむ趣味を「アングルのヴァイオリン」と呼ぶのは、このためだ。

パリでジャック=ルイ・ダヴィッドに学び、1801年にローマ賞を得た。国の費用でローマに留学できる賞だが、資金が足りず、渡航まで5年待った。1806年にイタリアへ渡り、ローマに14年、フィレンツェに4年を過ごした。

1810年に給費が切れると、肖像画を描いて暮らした。仕上げた絵の多くは売れず、外国人客の小さな鉛筆肖像を描いた時期もある。「肖像の素描家が住んでいるのはここですか」と戸口で尋ねた客に、「いいえ、ここに住んでいるのは画家です」と答えて戸を閉めたという。手帳には「老年が私の仇を討ってくれるだろう」と記した。グランド・オダリスクも1819年のサロンでは酷評されたが、半世紀後には最初の値の60倍で譲られた。

1824年、ルイ13世の誓いを携えてパリに戻ると、40代半ばでサロンの好評を得た。同じサロンに「キオス島の虐殺」を出したウジェーヌ・ドラクロワとは、新古典主義とロマン主義を代表する好敵手と見なされ、画壇を二分するほどだった。1827年のホメロス礼讃で古典派の指導者と目され、1832年のベルタン氏の肖像では、市民階級の新しい個性を描いた。

1855年のパリ万国博覧会の開会前、ドラクロワはアングルの部屋にこっそり入った。弟子のアモーリー=デュヴァルによれば、ドラクロワが出ていくと、アングルは係員に「窓を全部開けろ。ここは硫黄の臭いがする」と叫んだ。

75歳を少し過ぎて泉を仕上げ、1867年にパリで没した。「素描は芸術の誠実さである」と書いたアングルの線描は、エドガー・ドガらに深い影響を与えた。没後に初めて広く公開されたトルコ風呂は、パブロ・ピカソらを熱狂させた。

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