
落合芳幾
落合芳幾は、開港した横浜の外国人から新聞に載った事件まで描いた浮世絵師である。「東京日日新聞」の創刊に加わり、記事を一枚の絵で伝える新聞錦絵も手がけた。
天保4年(1833年)、江戸に生まれた。子どものころから絵を好み、質屋への奉公を経て、嘉永2年(1849年)ごろ歌川国芳に入門した。同門の浮世絵師・月岡芳年の兄弟子にあたる。
安政2年(1855年)の大地震で妻子を失った。吉原の惨状を描いた浮世絵で名をあげ、幕末には芳年を上回る人気があったという。
武者絵や役者絵、美人画のほか、開港後の横浜を題材にした横浜絵も手がけた。五ケ国於岩亀楼酒盛の図は、横浜絵の流行期に出た作品である。慶応2年(1866年)から翌年にかけては、芳年と「英名二十八衆句」を競作した。歌舞伎や講談の殺しの場面を14図ずつ描いたシリーズで、無惨絵の代表作とされる。
明治元年(1868年)には、女湯を題材にした競細腰雪柳風呂を出した。三枚の版画を横につないだ絵である。明治の初めには、着色写真の効果を木版で表そうとしたシリーズ「俳優写真鏡」に取り組んだ。俳優写真鏡 荒獅子男之助 坂東三津五郎はその一枚である。
明治5年(1872年)、戯作者の条野伝平、本屋の番頭だった西田伝助とともに「東京日日新聞」を創刊した。東京で最初の日刊紙で、現在の毎日新聞の前身にあたる。
創刊から2年後、出版元の具足屋は、この新聞の記事を芳幾の絵にして売り出した。絵に添えた解説文には振り仮名があり、平仮名しか読めない人にも事件を伝えた。これが最初の新聞錦絵で、東京土産にもなった。
芳年が描いた「郵便報知新聞」の錦絵版など、同様の出版物は約40種に増えた。しかし、挿絵入りの新聞に押され、流行は短期間で終わった。
芳幾自身も、明治8年(1875年)に「平仮名絵入新聞」の創刊にかかわり、挿絵を描いた。明治12年(1879年)創刊の歌舞伎雑誌「歌舞伎新報」では、役者の特徴を写実的にとらえた絵を手がけている。新聞の仕事に力を注ぐにつれ、錦絵を描く機会は減っていった。
晩年は借金取りに追われることもあった。新聞の仕事を退いたあと、自作の人形を浅草仲見世で売ったが、売れなかった。明治23年(1890年)以降は再び錦絵を描き、明治37年(1904年)に没した。
画業全体を紹介する初めての展覧会は、平成30年(2018年)に太田記念美術館で開かれた。100点を超える作品が並んだ。
落合芳幾の作品をお持ちですか?
Cugiraで出品してみませんか?




















