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鳥居清長

鳥居清長

とりいきよながTorii Kiyonaga
141 Artworks

鳥居清長は、天明期(1781〜89年)の江戸を代表する美人画の浮世絵師である。背が高くすらりとした八頭身の「清長美人」を、大判の錦絵を横につないだ二枚続・三枚続に並べ、江戸の実景のなかに描いた。その清長が、天明の終わりから錦絵を離れていく。師の孫が育つまで、芝居の看板を代々描く鳥居家を預かったためだ。

宝暦2年(1752年)、江戸の本材木町で本屋を営む白子屋市兵衛の子に生まれた。通称を新助、のちに市兵衛という。住まいのあたりには新場という魚市場があり、「新場の清長」と呼ばれたという。やがて鳥居家3代目の鳥居清満に入門し、初めは鳥居派の筆法で役者絵を描いた。

安永4年(1775年)ごろから、美人画のシリーズや読み物の挿絵を手がける。初めは鈴木春信、のちに礒田湖龍斎や北尾重政の画風を取り込み、写生をもとに独自の型を作った。天明の初めには、湖龍斎にかわって美人画の第一人者となっていた。

天明2年(1782年)から1784年ごろに出た「当世遊里美人合」「風俗東之錦」と、品川の遊里を描く「美南見十二候」は、清長の三大シリーズとされる。三枚続の飛鳥山花見では、桜の名所を奥に置き、手前に花見をする女や子どもたちを配した。芝居の絵では、役者だけでなく浄瑠璃の太夫と三味線弾きも描き込む「出語図」を生んだ。

昭和7年(1932年)に評伝「鳥居清長」を書いた野口米次郎は、清長の全盛を天明3年から7年までのわずか5年とみた。それでも、清長がいなければ寛政の浮世絵の黄金時代は二、三十年遅れただろう、と書いている。

天明5年(1785年)に清満が没すると、清長は家業の看板を描くよう頼まれた。野口によれば、鳥居家を継ぐことになると一度は断ったが、清満の娘婿に男の子が生まれ、その子が成人するまでという約束で中継ぎの養子になった。天明7年(1787年)ごろ4代目を継いでからは看板絵と番付絵に打ち込み、錦絵から次第に離れた。その子、のちの鳥居清峯は8歳のころ清長の門に入り、清長が文化12年(1815年)に64歳で没したのち、2代清満として家を継いだ。

清長の型は勝川春潮や窪俊満ら他派の絵師に受け継がれ、喜多川歌麿や鳥文斎栄之ら次の世代にも影響を与えた。野口によれば、昭和の初め、西洋の市場で清長の作品は東洲斎写楽を除けば浮世絵師のなかで最も高い値がついていた。

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