期間限定 手数料割引中 出品者3% 購入者1%
喜多川歌麿

喜多川歌麿

きたがわ うたまろKitagawa Utamaro
281 Artworks

喜多川歌麿は幼いころ、糸でつないだトンボや手のひらのコオロギに夢中だったという。師の鳥山石燕が『画本虫撰』の跋に書き残した話だ。のちに女性の顔と上半身を大きく描く美人大首絵で、それまでの美人画を一変させるほどの人気を集めた。

生年も出生地も確かではない。宝暦3年(1753年)生まれという通説は、寺に残る享年から逆算したものだ。浮世絵師としての初作は、安永4年(1775年)刊の浄瑠璃本の表紙絵とされる。当時は北川豊章と名乗り、役者絵も描いた。

天明の初め(1781年ごろ)に歌麿と名を改め、出版元の蔦屋重三郎と組んだ。蔦屋から出した『画本虫撰』『潮干のつと』『百千鳥』は、虫・貝・鳥を写生風に描いた狂歌絵本である。美人画より先に、花鳥画で腕を認められていた。

寛政3年(1791年)、蔦屋は出版した洒落本をとがめられ、財産の半分を取り上げられた。巻き返しを図って寛政4〜5年(1792〜93年)ごろ売り出したのが、歌麿の美人大首絵だった。役者絵には先例があったが、美人画では初めての試みである。

人相見の趣向を借りたシリーズ『婦女人相十品』『婦人相学十躰』が人気を集め、歌麿の評価は定まった。寛政三美人には、吉原の芸者の富本豊雛、浅草寺に近い茶屋の娘おきた、両国の高島屋の娘おひさを描いた。3人の名は、たちまち江戸中に広まった。

寛政5年(1793年)、評判の娘の名を錦絵に入れることが禁じられた。歌麿はのちに、鷹・島・火・鷺の上半分の絵で「高島ひさ」と読ませる判じ絵を使ったが、それもほどなく禁じられた。

吉原の遊女の名は問題にされなかった。シリーズ『青楼十二時』では、遊女の一日の暮らしを12枚に描いている。

文化元年(1804年)、太閤五妻洛東遊観之図など『絵本太閤記』に関わる錦絵が罪に問われた。秀吉らの名を描いたことが、武者の名や紋を禁じたその年の取締りに触れた。入牢のあと手鎖50日の刑を受け、2年後の文化3年(1806年)、失意のうちに世を去った。

明治の初め、英国人フランク・ブリンクリーは「歌麿バカリヨロシイ」と錦絵を買い集めたと伝わる。1891年には、フランスの作家エドモン・ド・ゴンクールが、美術商の林忠正の助けを得て歌麿についての最初の研究書を出した。題の『Outamaro: le peintre des maisons vertes』は、歌麿を「青楼画家」と呼ぶ。

Own a work by Kitagawa Utamaro?

List it for sale on Cugira.

List a work
281 works