期間限定 手数料割引中 出品者3% 購入者1%
竹内栖鳳

竹内栖鳳

たけうち せいほうTakeuchi Seihō
121 Artworks

一匹の猫を、これほど生々しく画絹に留めた絵師がいただろうか。班猫(1924年、山種美術館蔵、重要文化財)の前に立つと、身をよじって毛づくろいする三毛の、逆立つ毛の一本一本と、そこに流れる体温までが同時に迫ってくる。竹内栖鳳(1864〜1942)——京都・四条通の料理屋「亀政」に生まれ、京都画壇を近代へと押し出した日本画家の、これが到達点のひとつである。

十四歳で四条派の土田英林に絵筆を握り、1881年、円山・四条派の幸野楳嶺の私塾に入って号「棲鳳」を授かった。菊池芳文・谷口香嶠・都路華香とともに楳嶺門下の四天王と呼ばれ、対象を丹念に写生する円山・四条派の骨法を早くから身につける。だが栖鳳を凡百の京都絵師から隔てたのは、その写生眼を西洋の写実へと開いた一度の旅だった。

1900年、農商務省と京都市の命を受けてパリ万国博覧会を視察し、ロンドンやヴェネツィアを巡ってターナー・コロー・フラ・アンジェリコの実物を目に焼きつけて帰る。帰国後、号の「棲」を「栖」に改めた。その成果は羅馬之図(1903年、海の見える杜美術館蔵)やベニスの月(1904年頃、髙島屋史料館蔵)に、湿った空気と光の階調として現れ、雨に打たれる下女を描いたアレ夕立に(1909年、高島屋史料館蔵)、鏡の前の裸婦絵になる最初(1913年、京都市美術館蔵、重要文化財)へと結実する。西洋の空間表現を吸いながら、筆致はあくまで東洋の墨と水に留まる——この綱渡りこそ栖鳳の絵だ。

とりわけ動物を描かせると比類がなく、雀や兎や象までもが、写実を超えて息づいた。官展を牙城とした栖鳳は、在野の横山大観と並んで「東の大観、西の栖鳳」と称され、近代日本画壇の双璧をなす。1909年から京都市立絵画専門学校の教授として、また画塾「竹杖会」を主宰して上村松園・西山翠嶂・土田麦僊ら次代の巨匠を育てた。1937年、第一回文化勲章を受章。翌々年に世を去るまで、彼が磨いた「写生から気韻へ」という京都の系譜は、いまも生きている。

Own a work by Takeuchi Seihō?

List it for sale on Cugira.

List a work
121 works