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横山大観

横山大観

よこやまたいかんYokoyama Taikan
11 Artworks

富士を描き続けた日本画家・横山大観の名を広めたのは、恩師の苦境を重ねた《屈原》だった。1898年、恩師で東京美術学校の校長だった岡倉天心が辞任を命じられ、大観も学校を去る。天心を中心に日本美術院ができると、大観は中傷を受けて朝廷を去った中国の詩人を描き、その最初の展覧会に出した。各紙が競って論じ、前年の無我にはほとんど無関心だった世間に大観の名が広まった。

大観は明治元年(1868年)、水戸に生まれた。父の意向で東京大学を目指したが、予備門の受験では二つの科を同時に受けたことが決まりに触れ、失格になった。英語学校に通いながら鉛筆画を習ううち、国が美術学校をつくると知って画家へ心が動く。1889年、東京美術学校の第1期生として入学し、画家の橋本雅邦に学んだ。

卒業後は京都の美術工芸学校で教えた。京都にいたころ、禅僧が「何でも大きく出ろ」と言って「大観」の名を選んだと伝わる。

日本美術院では、親友の菱田春草と新しい描き方を試した。墨の線を使わず、刷毛で淡い色を画面に刷いていく。従来の日本画を見慣れた人々には洋画のまねと受け取られ、「朦朧体」とあざけられて厳しく批判された。

二人はインドへ渡り、続いてアメリカとロンドンでも展覧会を開いた。一方、国内では絵が売れず、茨城の五浦での暮らしは苦しかった。

やがて大観は国が開く展覧会の審査委員となり、《流燈》《山路》瀟湘八景などで評価を得る。だが1914年、その審査委員から外された。これを機に、天心の一周忌に同じ日本美術院の画家・下村観山らと美術院を再興した。

その後40年余り、大観は日本美術院の運営を担った。40メートルに及ぶ墨の絵巻生々流転を描き、華やかな屏風夜桜紅葉も生み出した。

富士も描き続け、「大観といへば富士山、富士山といへば大観」と言われるまでになった。山の形を写すだけでは足りず、富士に映る自分の心を描くのだと語っている。

1937年には第1回文化勲章を受けた。戦時中は日本美術報国会の会長を務め、作品の売上金を軍に献納し、南溟の夜を戦艦献納展に出品した。

戦後も日本美術院で制作を続けた。1949年の自選の回顧展では、広島の厳島神社に伝わる《屈原》を出すよう各方面から求められたが、大観は出さなかった。恩師が最も失意にあったときを重ねた絵だったからだ。大観は1958年に世を去った。

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