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竹久夢二

竹久夢二

たけひさ ゆめじTakehisa Yumeji
317 Artworks

黒い猫を胸に抱いた女が、こちらを見ているようで、見ていない。1919年の黒船屋——ふくよかな体つきに対して首だけが細く長く、伏せぎみの大きな瞳はどこか遠くをさまよう。この一枚に結晶した女性像を、人は「夢二式美人」と呼んだ。うつむき加減の輪郭を追う柔らかな線と、たっぷりとした余白。感傷が、絵の姿かたちそのものに移されている。

本名は茂次郎。1884年、岡山県邑久郡本庄村(現在の瀬戸内市)に生まれた。1901年に上京し、翌年早稲田実業学校に学ぶ。美術学校で誰かに師事した形跡はなく、学生のころから新聞へスケッチを投稿していた。転機は1905年、『中学世界』の懸賞に寄せたコマ絵「筒井筒」が一等に入ったこと。このとき初めて署名した「夢二」の号が、そのまま画業をつらぬく名になった。アカデミーを通らず、新聞や雑誌のコマ絵・挿絵から身を立てた画家である。

筆は絵にとどまらない。1914年、日本橋に「港屋絵草紙店」を開き、みずから図案した半襟や絵封筒、木版画を並べて売った。セノオ楽譜の表紙画は270点あまりを手がけ、書籍の装幀から広告まで及ぶその仕事は、日本の近代グラフィックデザインの草分けとされる。詩人でもあった。1910年、銚子で長谷川カタに寄せた思いから生まれた詩「宵待草」は、1917年に多忠亮の曲を得て、流行歌として全国にうたわれた。

女たちが、絵と生涯に交差する。戸籍上の妻となった岸他万喜(たまき)、港屋で出会い1920年に結核で早世した笠井彦乃、モデルのお葉——夢二式美人の面影は、彼女たちの間を行き来している。連作女十題(1921年)や長崎十二景(1920年)にも、その眼差しは受け継がれた。

1930年には「生活と芸術を結ぶ」を掲げて榛名山美術研究所の宣言を発表する。翌1931年からは横浜を発ってアメリカ、ヨーロッパを巡る旅に出て、ドイツやチェコ、フランスを歩いた。帰国後まもなく病を得て、1934年9月、信州富士見高原療養所で没した。数えで51。岡山の夢二郷土美術館や東京の竹久夢二美術館が、いまもその線と瞳を伝えている。

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