
ポール・セザンヌ
ポール・セザンヌは、学校でのちの小説家ゾラをかばって袋叩きにされ、翌日、籠いっぱいのリンゴを贈られたと詩人ガスケに語っている。リンゴの静物やサント=ヴィクトワール山の連作で知られ、日本では「近代絵画の父」と呼ばれるフランスの画家だ。
生まれたのは南フランスのエクス=アン=プロヴァンス。父はまだ帽子屋で、銀行を開いたのは息子の誕生から9年後だった。セザンヌは父の望みで法学部に通ったものの、絵を学ぶためにパリへ出た。
1861年、パリの画塾で9歳年上のカミーユ・ピサロと出会った。その後、ポントワーズやオーヴェールで彼と並んで描くうちに、暗かった画面が明るくなっていった。
1874年の第1回印象派展には、首吊りの家など3点を出した。官展では落選が続き、生涯で一度だけ入選したのは1882年だった。
やがて制作の場を故郷エクスへ移し、サント=ヴィクトワール山を油彩や水彩、素描で数十点描いた。大きな松のあるサント=ヴィクトワール山もその一つだ。人物画でも同じ主題を繰り返し、農夫たちをモデルにカード遊びをする人々の連作に取り組んだ。
動かないリンゴなら、いくらでも描き続けられそうだが、そうもいかなかった。画商アンブロワーズ・ヴォラールの回想によれば、アトリエのリンゴは腐りかけながらポーズを続けていた。腐らない紙の花さえ、長く置くと色が変わるとセザンヌはこぼした。
1895年、ヴォラールはパリでセザンヌの初めての個展を開いた。ヴォラール自身の回想では、アンブロワーズ・ヴォラールの肖像のモデルを務めて居眠りをすると、「りんごのようにじっとしていなさい。りんごが動きますか」と叱られた。115回座ったあとでセザンヌが口にしたのは、シャツの胸のあたりは悪くない、という一言だけだった。
1904年、若い画家エミール・ベルナールへの手紙で、自然を円筒、球、円錐によって扱い、全体を遠近法の中に置くよう勧めた。単純な形で捉えたものを、絵の中でどう組み立てるか。その問いは、リンゴにも山にも向けられていたと読める。
1906年9月には、ベルナールに「描きながら死のうと心に誓いました」と書いた。翌月、野外で描いているときに嵐に遭い、数日後に肺炎で没した。翌年、サロン・ドートンヌで開かれた56点の回顧展を、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、アンリ・マティスらが見た。
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