
狩野永徳
かのうえいとくKano Eitoku
11 Artworks
狩野永徳は、織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城・聚楽第の障壁画を、一門を率いて描いた。城とともに大半の絵は失われたが、唐獅子図屏風檜図屏風と上杉本洛中洛外図屏風が、大画から細画までの仕事の幅を伝えている。
天文12年(1543年)、京都で絵師の狩野松栄の長男として生まれた。祖父は狩野派の基礎を築いた狩野元信で、幼いころから直接絵を学んだとされる。
父とともに大徳寺聚光院の障壁画を手がけた際、永徳は法要を営む中心の部屋「室中」を受け持った。父に代わり、もっとも重要な部屋を任されたのである。
天正4年(1576年)からは安土城の障壁画制作に取り組み、息子の狩野光信らとともに天守や御殿を飾った。『信長公記』は、あらゆる画題と技法を使った絵だったと伝える。信長の没後も注文は続き、秀吉の大坂城や聚楽第、さらに御所や寺院の障壁画を手がけた。狩野派の工房による集団制作で大規模な仕事を重ね、狩野派は桃山時代の画壇の中心に座った。
永徳は、巨木や人物を大きく描く「大画」で知られる。江戸時代の画史『本朝画史』は「松梅は長さ一、二十丈」と記す一方、細部を緻密に描く「細画」にも優れていたと伝える。唐獅子図屏風檜図屏風が大画の代表なら、約2,500人の暮らしを描き込んだ上杉本洛中洛外図屏風は細画の代表である。
天正18年(1590年)、制作を続けるなか、48歳で世を去った。大画の様式は、長谷川等伯や海北友松らにも影響を及ぼし、桃山時代の花鳥画の基本的な組み立て方となった。
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