期間限定 手数料割引中 出品者3% 購入者1%
海北友松

海北友松

かいほうゆうしょうKaihō Yūshō
9 Artworks

近江の名門・浅井家に仕えた武家の子として生まれ、幼くして京都・東福寺に入る。だが友松の絵は、寺で行儀よく学んだだけの筆ではない。姉川の戦いで浅井家が滅び、一族の多くが討たれるという修羅場をくぐり抜けた男の絵だ。還俗して絵師となったのは四十歳を過ぎてからと伝わり、遅い出発だった分、迷いがない。

最初は狩野派、なかでも狩野元信の画法を手本にしたらしいが、友松はそこにとどまらなかった。中国・南宋の梁楷や、室町水墨の巨人雪舟の減筆体に惹かれ、対象を最小限の線と墨の階調だけで立ち上げる術を体得していく。代表作雲龍図(建仁寺方丈襖絵)を見れば分かるが、あの龍は輪郭線を律儀になぞって描かれているのではない。淡墨の滲みが渦を巻き、そこに濃墨の一筆が走ることで、雲そのものが生き物のようにうねり出す。金地の琴棋書画図や花卉図の屏風では一転、装飾的な華やかさも見せており、余白を殺さない構成力は狩野派仕込みでありながら、筆致の即興性はどこまでも友松個人のものだ。

武家の出という経歴は伊達ではなく、豊臣秀吉配下の武将たちや禅僧との交友を通じて、京都画壇の中枢に食い込んでいった。建仁寺は友松にとって単なる仕事場ではなく、若き日に世話になった禅林への恩返しの場でもあり、方丈を埋め尽くす一連の襖絵群は、彼の画業の総決算というべき仕事になった。同時代には狩野永徳や長谷川等伯という巨匠たちがひしめいていたが、友松の墨は彼らとは違う温度を持つ。永徳の壮麗、等伯の潤いに対し、友松の線は乾いて速く、どこか武人の太刀筋を思わせる鋭さが残る。

八十を超えてなお筆を執り続け、元和元年、大坂の陣の年に世を去った。戦国の記憶を身体に刻んだまま桃山水墨の頂点に立った、稀有な画家である。

Own a work by Kaihō Yūshō?

List it for sale on Cugira.

List a work
9 works