
狩野元信
狩野元信(1476〜1559年)は、父・狩野正信を継いだ狩野派の2代目の絵師である。中国画の筆づかいを三つの型にまとめ、弟子とともに襖や屏風を描く仕組みを整えた。寺院の大画面から町衆に売る扇まで手がけた。
制作年が分かる最初の作品は、永正4年(1507年)の細川澄元像である。初期には父と同じく幕府、とりわけ管領の細川氏から注文を受けた。永正10年(1513年)には、細川高国の命で「鞍馬寺縁起絵巻」を描いている。
幕府の力が弱まると、宮廷や公家にも仕事を広げた。寺院からの注文も大きく、天文8年(1539年)から天文22年(1553年)にかけて、弟子と石山本願寺の障壁画を描いた。元信自身は法華宗の信者だったが、対立する浄土真宗の本願寺からも注文を受けた。多額の報酬を得た記録が残っている。
海外へ贈る絵の注文もあった。天文10年(1541年)には、大内義隆から、明に贈る金屏風3双と扇100本を頼まれている。
注文が増え、求められる絵も多様になるにつれ、画風と制作体制の両方を整える必要があった。当時の絵師は、牧谿様・夏珪様など、宋元の中国画家の筆づかいで描くことを求められた。しかし、日本にある彼らの作品は小品が多く、襖や屏風の大画面には向かなかった。元信はその筆づかいを、書の楷・行・草になぞらえて「真」「行」「草」の三つに整理した。
緻密な構成と硬い線で描くのが真、少ない筆数で形を崩すのが草、その中間が行である。弟子にこの三つの型を学ばせることで、大画面を共同で描けるようにした。この方法によって「元信印」のある作品が数多く残り、かえって元信自身の筆を見分けにくくなっている。
元信は水墨画を基礎としながら、大和絵の土佐派の手法も取り入れた。大仙院の四季花鳥図は、真体で描いた着色画の代表例である。金銀を使う彩色や絵巻にも仕事を広げ、書院造の建築にふさわしい障壁画の様式を整えた。
孫の狩野永徳は元信から直接絵を学び、その画風を桃山時代の金碧画へと発展させた。元信は永禄2年(1559年)に没した。江戸時代の画史や画伝では、敬愛を込めて「古法眼」と呼ばれた。
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