鹿鳴館で、貴婦人が売り子になった

楊洲周延が題に「鹿鳴館」と記した絵は、研究者の真水康樹が集計した作品では2点だけで、どちらも舞踏会ではなくバザーだった。

周延は、明治の宮廷や上流の女性たちを描いた浮世絵師である。その絵に登場する鹿鳴館は、幕末に結ばれた不平等な条約を改めようとする外交のために建てられた。外務卿の井上馨は、外国の使節と交際を深め、日本人が西洋の文化や習慣を受け入れていることを示そうとした。

1883年11月28日の開館式では、夫妻をそろって招く西洋式の招待が行われた。建物は煉瓦造りの2階建てで、2階に舞踏室があった。この社交場では、男女同伴と洋装が原則だった。翌年、ここで華族の夫人や令嬢たちが売り場に立つ。

1884年6月12日から3日間開かれた慈善バザーである。売上を受け取った病院の広報誌によれば、手芸品など3000点が館内13か所に並び、夫人や令嬢たちが自ら販売した。入場者は延べ1万2000人に達し、入場を制限するほどだったと伝わる。

資金を必要としていたのは、有志共立東京病院だった。貧しい人を無料で診る施療病院で、現在の東京慈恵会医科大学附属病院の前身にあたる。

バザーを開いたのは婦人慈善会で、華族夫人ら13人が委員だった。大きなバザーは1884年と翌年の2回で、売上金1万5000円は病院に寄付された。その資金は、主に看護婦教育所の建設に使われた。

周延が最初のバザーを描いた1884年の絵では、女性たちは和装である。もう1点は1887年の作で、皇后が主題と考えられている。この2点の間に、宮廷の女性の装いが変わった。

楊洲周延
鹿鳴館貴夫人慈善会図
1884 木版多色刷/三枚続 38 × 73 cm
楊洲周延
於鹿鳴館貴婦人慈善会之図
1887 木版多色刷/三枚続 36 × 72 cm

ドレスが外交の場に入ってくるより前、周延は武士として戦っていた。

皇室を描く前に、新政府軍と戦っていた

周延の本名は橋本直義。1838年、江戸詰の高田藩士の家に生まれた。高田藩は越後の榊原家の藩である。長く幕府の御家人と紹介されてきたが、史料による研究で、その説は否定された。

若いころから歌川国芳や三代歌川豊国ら歌川派の絵師たちに学び、1865年に豊原国周へ入門して「周延」と名乗った。絵を学ぶ時間と、武士として生きる時間は重なっていた。

1868年の戊辰戦争では、高田藩は新政府側についた。ところが、江戸の藩邸に詰める藩士の一部は、藩主の説得を拒んで脱藩し、旧幕府側へ加わった。榊原の「榊」を「神」と「木」に分け、神木隊と名乗った。周延もその隊士だった。

神木隊は彰義隊に合流し、上野で新政府軍と戦った。上野戦争では、神木隊の隊士の約2割が戦死した。周延はそこを逃れ、箱館まで旧幕府軍と行動をともにする。明治2年(1869)5月、五稜郭で戦いが終わるまで、武器を持つ側にいた。

降伏後は高田へ引き渡され、謹慎した。その土地で親しくなったのが、30歳以上年上の絵師、青木崑山である。明治3年(1870)には、周延が天満宮の図を描き、崑山が松を添えた。謹慎の間にも、絵を描く時間はあった。

明治の初めに東京へ戻り、1877年の西南戦争を描いた錦絵で本格的な活動を始める。錦絵は、色を重ねて摺る木版画である。出版元が企画し、絵師に描かせて売った。

真水の集計では、周延の西南戦争ものは確実なものだけで117点ある。戦争の期間を仮に7カ月とすれば、3日に2点弱の割合になる。《鹿児島勇婦揃》には、「西郷隆盛妻」「桐野利秋妻」などの名札を付けた、西郷軍側の女性たちが並ぶ。

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楊洲周延
鹿児島勇婦揃
明治10年(1877年) 木版画 37 × 75 cm
On sale¥18,000

翌年からは、皇后や女官たちの暮らしを描く「御所絵」が多くなる。宮廷を描く仕事は、鹿鳴館が建つより前に始まっていた。

かつて新政府軍と戦った周延が、なぜ皇室を描いたのか。その理由を本人が語った言葉は、見つかっていない。絵に残っているのは、描く対象が変わったという事実である。

踊りは、毎週月曜に習いに行く

鹿鳴館の舞踏会に出るには、洋服を用意するだけでは足りなかった。男女が手を取り合い、西洋の音楽に合わせて踊ることを覚えなければならない。

1884年10月、鹿鳴館で上流階級向けの舞踏練習会が始まった。新聞では「舞楽会」と呼ばれた催しである。会員は当初、政府高官、外国の公使や大使、日本政府に雇われた外国人と、その夫人や令嬢たちに限られた。練習は毎週月曜の夜、1887年ごろまで続いた。

舞踏会を研究した村山茂代によれば、この練習は、欧化政策を進める政府高官たちの半ば強制だった。多くの日本人は、舞踏会で踊ることに消極的だったという。外交のための社交には、繰り返し通って身につける作法があった。

とりわけ華やかだったのは、天皇の誕生日を祝う11月3日の天長節夜会である。外務大臣が主催し、日本の上流の人々と外国人がともに踊った。

フランスの作家ピエール・ロティは、この夜会を「江戸の舞踏会」に書いた。招待状の裏には、横浜へ帰る特別列車が午前1時に出ると手書きされていたという。ロティによれば、令嬢たちは、誰と何を踊るかを書き込む舞踏手帳を持っていた。

ロティは、日本の令嬢たちはかなり正しく踊るが、習い覚えた動きだと分かる、と書いた。拍子を外すと、自分では戻れず、いったん止めてやり直させなければならないという。

ただし、その記述には日本人を見下す目が含まれる。また、作品中の夜会は1886年とされているが、ロティが来日したのは前年である。研究者の吉田城は、これを作品の虚構の一つとみる。細かな描写にも、書き手の偏りが入っている。

欧化を急ぐ政府への批判は、日本の新聞にも現れた。1887年4月20日には、仮装舞踏会が開かれた。旧版の事典には会場を鹿鳴館とするものもあるが、実際は伊藤博文首相の官邸だった。

『絵入自由新聞』は、それを「百奇夜行会」と呼んだ。百鬼夜行をもじり、高官たちの仮装を皮肉ったのである。条約改正案には政府内からも強い反対が出て、同年9月、井上馨は外相を辞任した。一般にいう「鹿鳴館時代」は、ここで終わる。

周延がドレス姿の女性たちを最も多く描いたのは、ちょうどこのころだった。

スカートの根拠は、古代の日本にあった

皇后の洋装化が正式に決まったのは1886年6月だった。翌7月、皇后は華族女学校を訪れ、公の場で初めて洋装を着た。1887年の新年拝賀では、皇后、女性皇族、臣下の女性たちが、宮廷の礼服として洋服を着用した。

まず変わったのは、宮廷の公的な装いである。メトロポリタン美術館の解説によれば、日本が他国と対等であることを外国の訪問者に示すため、貴婦人たちにも洋装が勧められた。

周延の絵に洋装の皇后が初めて登場するのは、1886年11月の《チャリネ大曲馬御遊覧之図》だった。主題はサーカスで、皇后は観客席に小さく描かれている。ドレスを着た皇后の姿は、曲芸を見る場面から周延の画業に入ってきた。

1887年1月17日、皇后は洋服の着用を勧める「思召書」を出した。宮内省から大臣、高位の官僚、華族へ伝えられた文書である。そこでは、西洋の流行を追うことだけが根拠にされたわけではなかった。

「衣ありて裳なきは不具なり」

上衣とスカートからなる洋服を、日本の古代の衣と裳に重ねたのである。袴を伴わない小袖型の着物は、下衣を欠く不備な服装とされた。洋服を着ることに、古い日本の服へ通じる理屈が与えられたのである。

素材は、なるべく国産を使うようにとも説いた。国内の素材を用いることは、製造の改良、美術の進歩、商売の利益につながるという。西洋式の服を勧める文書に、日本の古代と国内の産業が持ち出された。

同年8月の《女官洋服裁縫之図》には、女官たちがミシンを使い、西洋式の裁断と縫製をする場面がある。メトロポリタン美術館の解説によれば、皇后と明宮も描かれている。明宮は、のちの大正天皇である。

翌1888年7月の《雨過洗庭之図》では、同じ解説によれば、皇后と女官たちのボンネットやドレスに、ヨーロッパの服飾雑誌の図版が使われた。題の書き込みがなければ、誰が皇后かはすぐには分からない。手がかりは、たいてい衣装の菊や桐の紋か、紅白で飾ったボンネットである。

楊洲周延
A Garden Refreshed by the Passing Rain (Ukasentei no zu)
1888 木版多色刷/大判三枚続

完成したドレスも、それを縫う作業も、周延の錦絵になった。真水が「洋装美人」と分類した75点の主流は、舞踏会よりも、皇后を中心とする皇室の姿だった。

昼のドレスでは、夜会にならない

《貴顕舞踏の略図》は1888年の作品である。洋装の男女が踊るこの絵は、鹿鳴館の舞踏会を思わせる。

楊洲周延
An Abridged Picture of a Ball of the Nobility
1888 木版色摺・三枚続

東京家政学院大学の山村明子が注目したのは、女性たちが着ている服だった。夜会用のイブニング・ドレスではなく、昼間に着るデイ・ドレスなのである。山村は、男性の服の描写にも不正確なところがあると指摘する。

鹿鳴館には、外国の要人を接待する夜会と、踊りを練習しながら交流する舞楽会があった。山村は、この絵を夜会としての舞踏会の描写とは言えないと結論づけた。

可能性の一つは、月曜夜の舞楽会を描いた場面である。もう一つは、周延が新聞記事などの限られた情報から想像した舞踏会である。どちらかに確定したわけではない。

題が「略図」であることからも、山村は、周延が舞踏をする男女のイメージを描いたと考える。絵の題は、描き方についての手がかりにもなる。

翌1889年の《欧州管絃楽合奏之図》では、2人の女性ヴァイオリン奏者のドレスに特徴がある。メトロポリタン美術館の解説によれば、その上半身の型は、1885〜1887年のフランスの服飾雑誌『La mode illustrée』にたびたび現れたものだった。

楊洲周延
Concert of European Music (Ōshū kangengaku gassō no zu)
1889 木版多色刷/大判三枚続

西洋音楽の演奏会は、明治に輸入された新しい習慣の一つだった。その場の衣装も、海の向こうの流行と重なっていた。

一方、画中の楽譜には「明治唱歌の内 岩間の清水」とある。五線譜に日本語の歌詞が添えられている。合唱する人々が持つ紙をこの譜と見れば、西洋の楽器を使う演奏会に、日本語で歌う場面が組み込まれていたと読める。

誰の演奏会なのか、周延が会場にいたのかは、絵からは分からない。衣装の型をたどると、ある晩の東京ではなく、フランスの雑誌へ行き着く。

皇室の肖像なのに、名前がない

明治初期、民間業者による天皇陛下の写真の販売は禁止されていた。それでも写真を手元に置きたい人はいた。

1875年2月17日の『読売新聞』には、日光の鉢石町に住む老人の投書が載った。行幸を拝んだこともない老人は、天皇陛下の写真――投書の言葉で「御写真」――の売買を許してほしいと願った。神棚に上げて大切に拝み、天皇と皇后の姿を知りたいという。

「親の顔も知らずに居ては済まぬ事」

1か月後には、反対する投書も載る。天子の御影を、役者や芸妓の写真のように町で売るのは恐れ多いという主張だった。肖像を持ちたいという願いと、商品にすることへの抵抗が、同じ新聞に現れた。

写真の販売が禁じられる一方で、錦絵や石版画には別の条件があった。皇室写真を研究した右田裕規によれば、天皇・皇族の像だと明記しないかぎり、その販売は当局から黙認されていた。

1887年の《扶桑高貴鑑》には、画中に名はないが、メトロポリタン美術館の解説によれば、明治天皇、皇后、8歳の明宮が描かれている。扶桑は、日本を指す古い呼び名である。

楊洲周延
A Mirror of Japan’s Nobility
1887 木版多色刷/大判三枚続

3人の洋装や洋家具とともに、鶴や松、梅の絵と、龍を描いた花瓶がある。これらは東アジアで受け継がれた吉祥の図柄である。新しい宮廷の姿を、古くからの祝いの印が包んでいる。

人物の名前は、どこにも摺られていない。題は《扶桑高貴鑑》。この題と名の空白は、皇室の図像と明記しなければ販売を黙認するという条件に合う。名を伏せたまま、皇室の姿を届ける余地があった。

翌1888年、『東京朝日新聞』創刊号には、軍服姿の明治天皇を描いた木版画付録「貴顕之肖像」が付いた。追加注文が殺到し、版木がすり減って使えなくなった。彫り直して再版され、市中には粗末な石版の偽物まで出回ったという。

この新聞の読者や日光の老人が、周延の錦絵を買ったと確認されたわけではない。周延作品の購入者の内訳は、研究上も分かっていない。ただ、名を書かずに売られた肖像の周囲には、姿を見たい、手元に持ちたいという需要があった。

式の5日前に、行列はもう出版されていた

《憲法式大祭鳳凰御輦之図》は、版面に摺られた印刷・出版日が1889年2月6日である。大日本帝国憲法の発布は2月11日。式典後の行列が、式の5日前に錦絵になっていた。

この絵は、3枚の版画を横につないで一つの場面にしている。右の一枚には「憲法発布式後 市街御幸之図」とある。「式後」と記した絵が、まだ式を迎えていない町へ出る。

所蔵する美術館の解説によれば、告知された祝賀の予定を、先取りして描いた作品だった。鳳凰を屋根に飾った馬車に天皇と皇后が乗り、二重橋を渡って、天皇が観兵をする青山練兵場へ向かう。購入者は、これから起こる出来事を紙の上で見られた。

同じ1889年の《上野第三回内国勧業博覧会御幸之図》も、催しより先に出版されている。博覧会の開会は翌1890年4月1日だった。

メトロポリタン美術館の解説によれば、開会前の皇族による会場訪問が宣伝され、こうした版画は、これから先の博覧会を広める助けになった。

二重橋の前を鳳凰の車が通る図柄は、真水の集計では周延作品に少なくとも10種類ほどある。明らかに同じ絵でも、題は「憲法発布」「帝国議会」「新宮城」などと変わる。車内の皇后や付き添いの女性は、いずれも洋装だった。

一つの式典を写した記録としてだけ見ると、題の付け替えは不可解になる。宮廷の祝賀を伝える型として読むなら、同じ図柄が別の出来事に使われることにも筋が通る。

鹿鳴館時代の終わりに、ドレスの盛期が来た

周延の洋装美人は、1886年11月から1890年末までの約4年に集中する。最も多いのは1887年と1888年だった。一般に鹿鳴館時代と呼ばれる1883〜1887年とは、時期がずれている。

井上馨が辞任したあとも、皇后の洋装や演奏会、国家の祝賀を描くドレスは、周延の画面に残った。鹿鳴館の外交が終わっても、周延の描く宮廷のドレスは終わらなかった。

1890年末を過ぎると、周延は基本的に洋装美人を描かなくなる。その理由は、まだ分かっていない。皇室関連の画題が禁止されたという事実は確認できず、出版元が市場の需要を見て選ばなくなったという見方にも決め手はない。以前の絵が、後年に題を替えて再出版された例もある。

周延はその後、大奥の女性や、過去の女性の風俗を描く仕事へ進んだ。その時期にも旧高田藩士の懇親会へ通い、1906年からは息子を伴っている。宮廷のドレスを描いた絵師は、藩士たちの集まる席にも居続けた。

鹿鳴館の名が付いたバザーの2点へ戻ると、ドレスだけでは捉えきれない女性たちの活動がある。手芸品を持ち寄り、自ら売り、病院へ資金を渡す。舞踏室のある建物で集めた売上金は、主に看護婦を育てる教育所の建設に使われた。

出典

注

  • 1875年の投書と『東京朝日新聞』の付録は、右田裕規の論文に引かれた原文による。
  • ロティの文の日本語は、フランス語の原文からの拙訳による。
  • 周延が東京へ戻った年は、明治5年(1872)とする説と明治8年(1875)とする説がある。
  • 図版は、メトロポリタン美術館のパブリックドメイン画像と、Wikimedia Commons の画像(フッド美術館所蔵の《憲法式大祭鳳凰御輦之図》、《貴顕舞踏の略図》)による。
  • 周延の『東風俗 福つくし』は、読みもの「「ふく」でたどる明治の暮らし――楊洲周延『東風俗 福つくし』」で扱っている。

Images

  • 楊洲周延《鹿鳴館貴夫人慈善会図》 — Public domain / Wikimedia Commons, Waseda University LibrarySource
  • 楊洲周延《於鹿鳴館貴婦人慈善会之図》 — Public domain / Wikimedia Commons, Waseda University LibrarySource
  • 楊洲周延《Illustration of the Imperial Excursion to see the Charini's Circus (Charine daikyokuba goyūran no zu)》 — CC0 / メトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art, Gift of Lincoln Kirstein, 1959, JP3239)Source
  • 楊洲周延《Court Ladies Sewing Western Clothing (Jokan yōfuku saihō no zu)》 — CC0 / メトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art, Gift of Lincoln Kirstein, 1959, JP3340)Source
  • 楊洲周延《A Garden Refreshed by the Passing Rain (Ukasentei no zu)》 — CC0 / メトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art, Gift of Lincoln Kirstein, 1959, JP3342)Source
  • 楊洲周延《An Abridged Picture of a Ball of the Nobility》 — Public domain / Private collectionSource
  • 楊洲周延《Concert of European Music (Ōshū kangengaku gassō no zu)》 — CC0 / メトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art, Gift of Lincoln Kirstein, 1959, JP3276)Source
  • 楊洲周延《A Mirror of Japan’s Nobility》 — CC0 / メトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art, Gift of Lincoln Kirstein, 1959, JP3241a–c)Source
  • 楊洲周延《Constitution Ceremony Great Festival, the Royal Phoenix Carriage, a Picture of the Imperial Passages through the Streets of the Capital》 — Public domain / Wikimedia Commons, Hood Museum of Art, Dartmouth CollegeSource
  • 楊洲周延《Visit of the Empress to the Third National Industrial Promotional Exhibition at Ueno Park (Ueno dai sankai naikoku kangyō hakuran kai gyokō no zu)》 — CC0 / メトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art, Gift of Lincoln Kirstein, 1959, JP3253a–c)Source

この記事に出てくる作家

楊洲周延

Yōshū Chikanobu

1838–1912

歌川国芳

Utagawa Kuniyoshi

1798–1861

歌川国貞(三代目歌川豊国)

Utagawa Kunisada / Utagawa Toyokuni III

1786–1865

豊原国周

Toyohara Kunichika

1835–1900

青

青木崑山

Aoki Konzan

1805–1875