
ワシリー・カンディンスキー
モスクワの裕福な家に生まれ、法律と経済学を修めて大学の職まで用意されていた男が、三十歳を前に絵筆一本でミュンヘンへ渡る。きっかけは二つ、はっきり覚えている。ひとつは会場で観たクロード・モネの《積みわら》——タイトルを見るまで何が描かれているか分からず、それでも画面から目が離せなかったこと。もうひとつはワーグナーのオペラで、音が色になって迫ってくる感覚を味わったことだ。カンディンスキーは色を耳で聴くように見る人で、この共感覚めいた体質がのちの絵画観をそのまま形づくっていく。
ミュンヘンではアントン・アシュベやフランツ・フォン・シュトゥックに学び、やがて自らも教える側に回って若いフランツ・マルクらと出会う。1911年、二人で立ち上げたのが青騎士(デア・ブラウエ・ライター)——動物を精神の象徴として描くマルクと、色彩と形そのものに感情を託そうとするカンディンスキーは、対象を手放して「見えないものを描く」という一点で結ばれていた。同じ年に書いた『芸術における精神的なもの』は、絵画を物の再現から解放する宣言となり、《即興》や《構成》と題した連作でその理論を実践していく。線と色面だけの画面は、当時としては過激なほど何も「表していない」。
第一次大戦でロシアに戻された後、革命下の混乱を経て1922年にドイツへ舞い戻り、バウハウスの教壇に立つ。同僚のパウル・クレーとは互いの家を行き来する仲になり、二人の対話からカンディンスキーの絵はより幾何学的な言語へと研ぎ澄まされていった。円、格子、鋭い斜線——感情の奔流だった初期のスタイルは、この時期に理知的な秩序を獲得する。ナチスによるバウハウス閉鎖後はパリに逃れ、晩年は生物的な曲線が漂う独自の抽象へとまた姿を変えた。死の直前まで手を止めなかった、生涯を通じて「見えないものの形」を探し続けた画家だった。
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