
歌川国安
文化5年(1808年)、まだ十代半ばの若者が「豊国門人安画」と落款した役者絵を世に出した。歌川国安、そのひとである。役者の似顔を、師よりもいくぶん鋭角に、輪郭を切り立たせて描いた——豊国のやわらかな肉づきを受け継ぎながら、面貌の線に自分の呼吸を通わせた絵師だった。
国安は寛政6年(1794年)、江戸に生まれた。俗称は安治郎、一鳳斎と号し、西川安信を名乗った時期もあったと伝わる。文化年間の初め、歌川豊国(初代)の門をたたく。当初は師の家に寄宿していたといい、そこで役者絵の描線を骨の髄まで叩き込まれた。式亭三馬の合巻『一対男時花歌川』の挿絵は、その修業期をしめす早い仕事に数えられる。
豊国門下は多士済々だった。のちに一門を率いる歌川国貞、武者絵で名を轟かせる歌川国芳——そうした綺羅星のなかで、国安は歌川国丸・歌川国直とともに「豊国門下の三羽烏」と称され、なかでも役者絵の第一人者に挙げられた。師の様式をもっとも忠実に伝えた才、というのが同時代の評である。
その筆は役者絵にとどまらない。奥行きを誇張する浮絵で両国の賑わい(1820年頃)や日本橋魚市繁栄図のような都市の活気を描き、美人画では《女護島の恋の湊》(1830年)を、読本の世界を絵にした《傾城水滸伝》(1826年)を残した。生涯におよそ百点の版本挿絵と、数百枚の一枚摺を手がけたという。門下からは歌川安信をはじめ安峰・安清といった絵師が巣立っている。
しかし天保3年(1832年)、39歳で世を去る。働き盛りの急逝であった。ただ、その死後もなお国安の絵は版を重ねて売られつづけた——市井の人々が、この絵師の役者を、美人を、なお求めていた証しである。作品は今日、メトロポリタン美術館、大英博物館、ヴィクトリア&アルバート博物館などに収められている。
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