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土屋光逸

土屋光逸

つちや こういつTsuchiya Koitsu
18 作品

土屋光逸(1870〜1949)は、小林清親の家に住み込み、子守や大工仕事も担った内弟子だった。夜景を得意とする新版画家として展覧会に登場したのは、60歳を過ぎてからだった。

浜松の農家に生まれ、十代半ばで上京した。清親の版画を彫っていた松崎の弟子となり、その縁で明治19年(1886年)、16歳で清親に入門した。渡辺版画店の昭和10年(1935年)の「木版画目録」は、その暮らしを「家族同様に同家にある事約十九ケ年」と記す。

内弟子時代には、日清戦争の万々歳凱旋之図などの錦絵を描いた。清親の意向で石版画も学び、「教育歴史画」などを手がけたが、やがて肋膜炎を患い、石版画家の道を諦めた。

大正11年(1922年)、東京の高輪から茅ヶ崎の南湖へ移り、以後はそこで制作した。昭和の初めまで暮らしを支えた仕事の一つが、中国へ輸出する掛軸だった。娘の回想によれば、注文は多く、稼ぎもかなりあった。

転機は昭和6年(1931年)に訪れた。清親の十七回忌の記念展覧会を手伝う光逸に、展覧会を開いた渡辺版画店の店主・渡辺庄三郎が新版画を描くよう勧めた。翌年、同店の展覧会に試作の風景版画2点を出した光逸は61歳だった。その一つ祇園の夜桜を、先の目録は「清親の面影が現われて居ります」と紹介している。

昭和8年(1933年)からは土井版画店で風景版画を出した。茅ヶ崎市美術館が代表作として並べた「東京風景」全12図や浅草金龍山も手がけている。出版した作品が最も多いのは土井版画店で、渡辺版画店からは雪の堅田浮見堂など10点、東京尚美堂や京都の馬場信彦からも作品を出した。

戦争が激しくなると、中国向けの掛軸とアメリカ向けの風景版画の販路がともに絶たれた。戦中から終戦後まもなくは、遺族に頼まれて戦死者の肖像を描いた。その後は縁起物や床の間の掛軸を手がけ、鍾馗を得意とした。

戦後、新しい新版画は制作しなかった。昭和24年(1949年)11月13日、南湖の自宅で肺炎のため79歳で没した。

光逸は長く「小林清親の古い内弟子」として知られる程度だった。平成9年(1997年)に遺族が茅ヶ崎市美術館へ遺品を寄贈し、同館の平成11年(1999年)の「風光礼賛 土屋光逸展」には多くの作品が並んだ。存命の遺族によって、確かな履歴も明らかになった。

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