
鳥居清峯
「清満 かんばん」と江戸の名士を格付けした本に載ったのが、浮世絵師の鳥居清峯、のちの二代目鳥居清満である。元禄のはじめから江戸の芝居の絵看板を描いてきた鳥居家の五代目を継いだ。
嘉永6年(1853年)の「当代全盛高名附」は、吉原の案内書をもじった小冊だった。浮世絵師の欄では三代目豊国に「にかほ」(似顔)、国芳に「むしや」(武者)、広重に「めいしよ」(名所)を添え、清満には「かんばん」と記す。
清峯は江戸の人で、天明7年(1787年)、一説に翌年に生まれた。祖父は鳥居家三代目の初代鳥居清満である。
寛政7年(1795年)、四代目の鳥居清長に入門し、清峯と名のった。同年、清長は絵師だった実子の清政に画業をやめさせた。継承をめぐる争いを避けるためだったという。
清峯の名では、美人画の錦絵や物語の本の挿絵を描いた。シリーズ「東錦美人合」の東錦美人合 口紅をつける美人もこの時期の一枚である。文化3年(1806年)刊の「朧月猫の嫁入」に、すでに「清峯画」とある。
文化7年(1810年)の「糸桜本朝文粋」の見返しには「元祖清信五世 鳥居清峯画図」と署した。口上は清峯に代わって、まだ若く未熟な絵師が鳥居の名跡を継げるよう贔屓を願い、この本を「初舞台同然」と呼ぶ。
文化9年(1812年)ごろの象引では、鳥居派の祖鳥居清信の古図を写し、「末葉五代目 清峯画」と署した。上に書き入れられた戯作者の烏亭焉馬の考証は、歌舞伎十八番「象引」の初演を元禄14年(1701年)とする説の唯一のよりどころである。
文化12年(1815年)5月に清長が没し、11月の中村座と河原崎座の顔見世番付には「清峰改鳥居清満筆」の署名が現れる。清峯は二代目清満を名のり、鳥居家五代目の当主となった。
襲名後は物語の本の挿絵をやめ、錦絵も多くは作らず、芝居の看板絵と番付絵を中心に描いた。顔見世番付の「鳥居清満筆」の署名は文久3年(1863年)まで続く。役者を悼む翫雀追善はなしとりや、晩年の狂歌・俳諧の本にも筆を寄せた。
安政の番付「大都会無双」には「古風 しばゐのかんばん二つない 鳥居清満」とある。雑司ヶ谷の法明寺の絵馬《三人静白拍子図》は東京都の文化財で、実際には中村座の寿狂言「大小舞」を舞う三人の役者を描いている。
明治元年11月21日(1869年1月3日)に没した。享年82、一説に81。長男が三代目鳥居清満として家を継いだ。
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