
ラファエル・コラン
法律を学んでいた黒田清輝が、画家になる決意を養父に書き送った翌日に入門した相手が、フランスの画家ラファエル・コランだった。当時のコランは官展「サロン」で成功を収めていたが、黒田はその画風に惹かれて師を選んだわけではない。入門には、黒田が、先にコランに学んでいた日本人画家の通訳を務めた縁があった。この出会いから、コランの描き方はのちに日本の洋画へ広がっていく。
コランは1850年にパリで生まれ、国立美術学校でウィリアム・ブグローとアレクサンドル・カバネルに学んだ。1873年、サロンに出した《眠り》が賞を得て、美術館に買い上げられた。
1886年には、湖のほとりに裸の少女が横たわる花月が政府に買い上げられ、リュクサンブール美術館に入った。1888年にも同じ題で描いており、その一枚はいまブエノスアイレスの国立美術館にある。
花月が発表された1886年には、印象派の最後の展覧会も開かれた。一方、コランの絵は、美術学校で学んだ堅実な写実を保ちながら、戸外の明るい光を取り入れたものだった。黒田と、同じ年の夏にパリへ来て入門した久米桂一郎は、この描き方を「外光派」と呼び、自分たちも目指した。
二人が通ったコランの教室では、古い絵を写し、彫刻を素描するところから始めた。次に裸の人物を素描し、続いて油絵で描いた。週に二度、コランが生徒たちの作品を見て回った。
帰国した黒田と久米は天真道場という画塾で絵を教え、明治29年(1896年)には白馬会を立ち上げた。久米は、印象派の画家たちが強い日の光の効果を追ったのに対し、コランに学んだ自分たちは穏やかでやわらかな調子の風景画を目指したと語っている。
その後も、明治30年(1897年)には岡田三郎助がコランに入門し、明治34年(1901年)には中村不折が半年ほど学んだ。
コランと日本とのつながりは、教室の外にもあった。パリで日本美術を扱った林忠正から版画や陶器を譲り受け、1892年には代わりに自分の素描や絵を渡す約束をしている。明治38年(1905年)の白馬会十周年紀念展には、林が所蔵するコランの大作《詩》も出品された。林は手持ちの骨董品と交換してこの絵を得たという。コラン自身は後年、林が若い黒田を紹介しに来たとも振り返っている。
1916年、コランは没した。今日ではほとんど忘れられた画家とされるが、日本では平成11〜12年(1999〜2000年)に「ラファエル・コラン展」が6つの会場を巡り、平成27年(2015年)には国立西洋美術館が油絵を2点買い入れた。
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