
パウル・クレー
スイスのベルン近郊、音楽家の父とオペラ歌手の母のもとに生まれたクレーは、絵筆を握る前にヴァイオリンを弾いていた。実際、青年期の彼は画家になるか音楽家になるか本気で迷っていたという。結局ミュンヘンで絵を学ぶ道を選ぶが、その耳は生涯にわたって作品の奥に潜み続ける。線を旋律のように紡ぎ、色面をリズムのように重ねる彼の絵は、しばしば「音楽を描いた」と評される。
転機は1914年、アウグスト・マッケらとともに訪れたチュニジアの旅だった。北アフリカの光と乾いた色彩に打たれたクレーは日記にこう記す――「色彩と私はひとつになった。私は画家なのだ」。この体験を境に、それまでどこか実験的だった彼の作品は、独自の色彩言語を獲得していく。小さな正方形や矩形が水彩の滲みとともに並ぶセネシオのような作品には、子どもの絵のような無邪気さと、緻密に計算された色彩理論が同居している。
ミュンヘンではワシリー・カンディンスキーやフランツ・マルクらと親しく交わり「青騎士」の周辺に身を置いたが、集団の様式に染まることなく独自の道を歩んだ。1920年代にはバウハウスに教師として招かれ、造形理論の講義録は『教育スケッチブック』としてまとめられる。線を「散歩する点」と定義したその講義は、後の抽象芸術教育の礎となった。教えることは彼にとって自分の絵を理論として言語化する作業でもあった。
1933年、ナチス政権のもとで教職を追われ、故郷スイスのベルンへ戻った。1935年からは難病(強皮症)を患い、1937年には作品が「退廃芸術」とされた。身体の自由を奪われていく晩年、クレーの筆致はむしろ荒々しく、太い黒線が画面を切り裂くように走るようになる。死の前年に描かれた《死と炎》では、顔のような形象が炎とも死神ともつかぬ姿でこちらを見つめる。軽やかだった線が、ここでは重く、切実に迫ってくる。病と迫害のなかでなお描き続けたその手は、最後まで止まらなかった。
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