
ニコラ・プッサン
ニコラ・プッサンは、生涯の大半をローマで過ごしたフランスの画家である。聖書や神話、古代史の物語を、人物の表情や身ぶりで語った。助手を使わず、一人で時間をかけて描いた。構図を考えるときには、小さな蠟人形を箱の舞台に並べた。
1594年、フランス北部ノルマンディーのレ・ザンドリ近くに生まれた。修業時代の記録は少ないが、18歳ごろにはパリへ出ている。王室の美術コレクションを見る機会があり、そこで触れたラファエロ・サンティの版画が、後の画風に大きく影響した。ローマ行きは二度失敗し、ようやく到着したのは1624年の春だった。
ローマでも、すぐに仕事を得たわけではない。病気で何か月も描けず、手元の絵を安く売って暮らした。転機は、教皇の甥フランチェスコ・バルベリーニ枢機卿のために描いたゲルマニクスの死だった。古代の史書と石棺の浮彫を手がかりにしたこの絵で、画家としての評判が定まった。
サン・ピエトロ大聖堂の祭壇画は好評を得られなかった。それ以降、大きな公の注文を追わず、個人の収集家に向けて中くらいの絵を描くようになった。1630年代の終わりに描いたアルカディアの牧人たちの主題は、墓石の銘を前にした牧人たちである。ラテン語の銘は、アルカディアにも死はあるという意味に読まれてきた。
1640年、ルイ13世の首席画家としてパリに戻った。しかし、宮殿の天井装飾や祭壇画、タピスリーの下絵など、次々に来る仕事は、ゆっくり描く習慣とかみ合わなかった。ほかの画家たちの批判も受け、2年足らずでローマへ戻り、以後フランスへは帰らなかった。
1648年ごろからは、風景が画面の中心になる。フォキオンの葬送では、偽りの罪で処刑された古代アテナイの将軍の遺体を運ぶ場面を、広い風景の中に描いた。1650年には、生涯に2点しか描かなかった自画像の1点、自画像を仕上げた。その後は体が弱り、手の震えもひどくなったが、連作「四季」の4点を描き上げた。春はアダムとイヴの楽園、夏は旧約聖書のルツで表している。1665年、ローマで世を去った。
死後、画風は、ローマで彼に学んだ画家シャルル・ル・ブランを通してフランスの美術に広まった。素描を第一とするプッサン派と、色彩を重んじるルーベンス派の論争も起きた。19世紀には画家のジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルが称え、ポール・セザンヌも手本とした。
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