
ジョン・エヴァレット・ミレイ
夏目漱石が「草枕」で何度も取り上げた「ミレーのオフェリヤ」は、ジョン・エヴァレット・ミレイのオフィーリアである。ミレイは19世紀イギリスの画家で、ラファエル前派兄弟団をつくった一人であり、のちにこの時代でもっとも成功した画家の一人となった。
フランスの画家ジャン=フランソワ・ミレーとは別人で、日本では区別するためにミレイと書くことも多い。
1840年、11歳でロイヤル・アカデミーの美術学校に入り、史上最年少の生徒となった。16歳のころには絵の稼ぎで家の生活費の大半をまかなっていた。
1848年、19歳のミレイは両親の家で、画家のウィリアム・ホルマン・ハント、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティらとラファエル前派兄弟団を結成した。
その考えを、ミレイは「自然の中に見たものをカンヴァスに表すこと」と説明した。翌年のロレンツォとイザベラは、この手法で描いた最初の作品で、ベンチの脚には兄弟団を示す「PRB」の文字を描き込んだ。
1850年の展覧会に出した両親の家のキリストでは、聖家族を、どこにでもいる大工の一家として描いた。新聞「タイムズ」は「胸が悪くなる」と評し、作家チャールズ・ディケンズも攻撃に加わった。
翌年、批評家ジョン・ラスキンが新聞への手紙と小冊子でラファエル前派を擁護した。
オフィーリアの川辺は、サリー州のホグズミル川で実物を前に描いた。モデルのエリザベス・シダルは、ランプで温めた水の浴槽で4か月にわたってポーズをとった。あるときランプが消えて重い風邪をひき、ミレイが医者の費用を払った。
ラスキンの妻エフィー・グレイは1854年に結婚の無効を認められ、翌年ミレイと結婚した。二人には8人の子が生まれた。
結婚後、ミレイは細部を描き込む手法から、幅の広い筆づかいへ移っていく。1857年、ラスキンはオフィーリアマリアナのころからの変化を「ただの堕落ではない、破局だ」と評した。
1870年以降は肖像画と風景画に力を注ぎ、秋を過ごすスコットランドで冷たい十月などを描いた。子どもの絵も、版画や絵入り新聞の色刷りで親しまれた。
バブルスのモデルは孫で、ミレイ自身は「子どもの世界」と名づけた。描いた翌年にペアーズ石鹸の会長が買い、広告のポスターに使われた。
1885年に准男爵に叙せられた。1896年にロイヤル・アカデミー会長に選ばれたが、同年8月、喉の癌で世を去った。
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