
ヤン・ファン・エイク
ブルッヘの工房で、ファン・エイクは絵具に何層もの透明な油絵具を薄く重ねていった。乾いては塗り、また乾いては塗る。その根気の積み重ねが、絨毯の毛羽立ちも、真鍮の燭台に映り込む窓の光も、犬の毛の一本一本までも描き分ける異様な精度を生んだ。油彩技法を発明したわけではないが、それを絵画表現の中心に据え、ヴェネツィアより百年近く早く西欧絵画に「見えるものすべてを描く」という野心を持ち込んだのはこの人だった。
生涯の詳細は乏しく、1390年頃マースエイク近郊に生まれたと推測される。1422年頃にはハーグでバイエルン公ヨハン(ホラント伯)に仕え、1425年からブルゴーニュ公フィリップ善良公の宮廷画家兼外交使節となった。ポルトガル王女イザベラとの縁談のため肖像を描く使命でリスボンに赴いたという記録も残る。1430年頃からブルッヘに定住し、市の有力商人や聖職者の注文をこなしながら、代表作ヘントの祭壇画(1432年、弟ヒューベルトとの共作とされる)を完成させた。開くと現れるアダムとエヴァの裸体像は、当時の北方絵画としては異例なほど生々しい写実で描かれている。
アルノルフィーニ夫妻像(1434年)では、部屋の奥の凸面鏡に画家自身らしき人物が映り込み、上部には「ヤン・ファン・エイクここにありき」というラテン語の署名が刻まれる。絵画に自己を刻印するという行為そのものが、当時としては大胆だった。宰相ロランの聖母やキリストの磔刑、晩年のファン・デル・パーレの聖母子に至るまで、光と質感への執着は一貫して衰えない。
工房は国際的な評判を呼び、その精密描写はペトルス・クリストゥスら弟子筋やロヒール・ファン・デル・ウェイデンら同時代人にも影響を及ぼし、後のフランドル絵画、さらにはイタリアの画家たちにまで波及した。宮廷画家としての破格の待遇——公から生涯にわたる年金を保証されたことは、当時の職人身分の画家としては異例の栄誉である。1441年、ブルッヘで没した。
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