伊
伊藤孝之
いとう たかしItō Takashi
1 作品
雪の渓谷や春の山あいに、旅人らしき小さな人影がぽつりと置かれる。伊藤孝之(1894〜1982)の風景版画を一枚めくると、まず出会うのはこの静けさだ。広大な自然を人が見上げる構図は、遠くドイツ・ロマン派の絵画にも通じる詩情をたたえ、平坦な色面を積み重ねる従来の錦絵とは明らかに異なる世界を開いている。
静岡県浜松に生まれた孝之は、京都で竹内栖鳳に日本画を学び、のち東京美術学校で結城素明に師事、鏑木清方の門下にも連なった。版元・渡邊庄三郎のもとへ加わったのは、この清方の紹介による。大正11年(1922年)、《隅田村晩秋》小台の渡しを初めての新版画として世に問い、渡邊は孝之を川瀬巴水や伊東深水と並ぶ主要な絵師のひとりとして遇した。
以後1930年代にかけて、大判を中心に五十点あまりの叙情的な風景を送り出す。孝之の版が絵画に近く見えるのは、平らな色ではなく微妙なぼかしと絵画的な陰影で四季を刻んだからで、それを可能にしたのは渡邊工房の彫師・摺師の高度な技であった。《上高地春雪》や《奥入瀬晩秋》に見える旅人の視線、あるいは《瀬戸内海秋津》の水辺の静謐——広い山野や海辺に小さな人を配し、自然を仰ぐ静けさに、この画家の詩情がにじむ。戦後も規模を縮めながら制作を続けた。
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