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長

長谷川久蔵

はせがわきゅうぞうHasegawa Kyuzo
2 作品

八重桜の花びらが一枚ずつ盛り上がり、干菓子のように見える。京都・智積院の国宝桜図を描いたと推定されるのは、桃山時代の画家長谷川等伯の長男、長谷川久蔵である。一門の希望を託されながら、26歳で世を去った。

永禄11年(1568年)、能登国七尾に生まれた。幼いころ父とともに京都に上り、絵の手ほどきを受けた。兄弟のなかで最も才能に恵まれていたとされる。

等伯にとって、狩野派は上京以来のライバルだった。天下人の御用絵師だった狩野永徳が世を去ると、豊臣秀吉に重用されたのは等伯の一門である。天正19年(1591年)、秀吉は3歳で亡くなった長子・鶴松を弔うため、祥雲寺を建てた。等伯は一門を率いて、その部屋を飾る絵を描いた。のちに智積院に移った絵のうち、《楓図》は等伯自身の筆、桜図は、たおやかでしなやかな画風から久蔵の筆と推測されている。久蔵はこの絵で名を上げたという。

早く世を去ったため、久蔵の作として知られる絵は桜図を入れても3点ほどしかない。東京国立博物館の《大原御幸図屏風》は、『平家物語』の終わり近く、後白河法皇が大原の庵に建礼門院を訪ねる場面を描く。もう一つは、清水寺に伝わる絵馬《朝比奈草摺曳図》である。大力の朝比奈義秀が曽我五郎の鎧の草摺をつかみ、力比べをした故事を描く。京都の町なかに残る大絵馬では最も古く、天正20年(1592年)の作と伝わる。寛永6年(1629年)に清水寺が焼けたときも、この絵馬だけが奇跡的に焼け残ったと、裏面の墨書は記す。

この絵馬には、こんな話も伝わる。元禄7年(1694年)刊の井原西鶴の浮世草子『西鶴織留』によれば、久蔵は袴のひだを折った上に、うっかり舞鶴の紋を描いてしまった。それを染物屋の下女に見つけられて京じゅうの評判になり、久蔵は一生そのことを気に病んだという。

その一生は、絵馬の翌年に終わる。文禄2年(1593年)6月15日、久蔵は京都で没した。26歳だった。辞典にも美術館や文化庁の解説にも、死因の記述はない。

江戸時代に狩野永納が編んだ画家伝『本朝画史』は、父のライバルだった狩野派の正統を強く説く本である。その本が、久蔵の画は清らかで雅なことでは父にまさり、一門に及ぶ者はいないと評した。

その一方で、江戸時代のいくつもの画伝が、久蔵の名を「信春」とした。17歳でこの絵馬を描き、18歳で世を去ったとする画伝まである。いまの辞典では、信春は父の等伯が若いころに使った号とされている。

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