
ギュスターヴ・クールベ
ギュスターヴ・クールベは、故郷オルナンの葬式を横668cmの画布に描いた。田舎町の住人を、歴史画や宗教画にだけ許されていた大きさで描き、19世紀フランスの写実主義(レアリスム)を率いた画家である。
フランス東部のオルナンで、裕福な地主の家に生まれた。1839年にパリへ出ると、法律の勉強をやめた。画塾にも長くとどまらず、ルーヴルで巨匠の絵を写して学んだ。1844年、黒い犬を連れた自画像でサロンに初入選した。
1849年、父や友人がヴァイオリンを聞くオルナンの食休みがメダルを得て、国が1,500フランで買い上げた。このメダルで、以後は審査なしでサロンに出せるようになった。
1850〜51年のサロンにはオルナンの埋葬石割人夫などの大作を並べた。「美しくないものを描いている」という理由で、スキャンダルになった。
1854年には、パトロンのアルフレッド・ブリュイヤスをモンペリエに訪ねた。その出迎えを描いたのが出会い(こんにちはクールベさん)である。
1855年の万国博覧会では11点が受け入れられたが、オルナンの埋葬と画家のアトリエは落とされた。クールベは会場の向かいに煉瓦と木の展示館を建て、「レアリスム館」と名づけて40点を並べた。目録の序文は、のちに写実主義宣言と呼ばれる。画家のウジェーヌ・ドラクロワは日記に、落とされた絵に傑作を見つけたと書いた。
1857年のサロンではセーヌのほとりの娘たちが騒ぎになった。同じ年から狩猟の絵も出し、悪評と売れ行きの両方を得た。1867年の万国博覧会でもクールベは自分の展示館を建て、画家のエドゥアール・マネもこれにならった。
1870年、政府が贈ろうとしたレジオン・ドヌールを、「わたしは50歳で、いつも自由に生きてきた」と書いて断った。
翌年のパリ・コミューンでは議員と芸術家連盟の会長を務めた。前年にヴァンドーム広場の円柱をばらして移すよう申し入れていたため、柱が倒されると責任を問われた。倒す議決には加わっていなかったが、禁錮6か月と罰金500フランを言い渡された。
1873年、円柱の再建費を負わせる法律が通った。見積もりは32万3091フラン68サンチームだった。財産を差し押さえられ、スイスへ逃れた。
1877年12月31日に58歳で没し、大きな風景画アルプス遠望 ダン・デュ・ミディは描きかけで残された。
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