数百点の花鳥に、珍しい空想の一枚

小原古邨の木版画《踊る狐》は、数百点の花鳥を描いた画家には珍しい、遊び心のある空想の一枚だ。クリーヴランド美術館の作品解説でも、その珍しさが取り上げられている。しかも、古邨の作品の中で特に人気がある。

小原古邨
踊る狐(大黒屋版)
1900–1919 木版多色刷

古邨は、初めから版画を仕事にしていたわけではない。古邨の生前に出た浮世絵師の人名録『浮世絵師伝』によれば、明治10年(1877年)に加賀金沢で生まれ、上京して日本画家の鈴木華邨に学んだ。1899年に日本画の団体、日本絵画協会の展覧会に出品し、その後も数年、毎年絵を出している。

若いころの出品作の題には、狐や猿、猫、虎、雀がすでに並んでいた。花鳥版画に本格的に取り組む前から、生きものは古邨の画題だった。ただ、展覧会で絵を評価されることと、その絵で暮らしを立てることの間には、隔たりがあったようだ。

葉を載せた狐が生まれた背景には、動物を描く画家が、自分の絵を買ってくれる相手を探していく道のりがある。

1点3円50銭では、どう暮らすか

1900年秋の展覧会目録には、絵の値段が載っている。古邨の花鳥獣の絵は1点3円50銭。同じ会場で、日本画家の菱田春草の出品作には120円の値がついていた。

この差を、そのまま画家の実力の差とは読めない。この展覧会は日本美術院との合同展で、春草は日本美術院の創立に加わった画家だった。古邨を研究する庵原理絵子も、日本美術院系の画家が優遇される傾向は考慮しなければならないと記している。

それでも、褒状を受けることはあっても、高い値で売れる画家ではなかった。11年後の1911年に出た画家録でも、古邨は値段で分けた7段のうち下から2段目にいる。師の華邨は最上段だった。

1903年、古邨は結婚し、その後、子どもも生まれた。このころを境に、日本画の制作から距離を取るようになる。庵原は、展覧会への出品以外にも収入の道が必要だったのかもしれない、と書く。転身の理由は一つに決められない。

翌1904年には、日露戦争を題材に、3枚の版画を横につないで一つの場面にした木版画を出版した。しかし、戦争を伝える浮世絵の出版は、写真報道が広まるにつれて数が激減していた。版画なら何でも売れる、という時代でもない。

海の向こうへの足がかりは、すでにあった。1902年にニューヨークで開かれた競売の目録には、東京の浮世絵商、小林文七の所蔵として、古邨の花鳥の屏風や掛軸が載っている。

古邨が本格的に取り組むことになるのは、戦場から遠い花鳥版画だった。明治40年前後から、海外に販路を持つ版元と組んで、花や鳥、獣を描いた版画を作る。版元とは、絵師に下絵を頼み、彫師と摺師の手を借りて版画を出版し、売る店のことである。日本画家として描いてきた生きものが、ここから海外の客へ本格的に向かう。

鳥を追い払う道具に、雀がとまる

《鳴子に雀》の鳴子は、田で音を鳴らして鳥を追い払う道具だ。その道具に、追われる側の雀がとまっている。

小原古邨
鳴子に雀(大黒屋版)
1900–1930 木版多色刷 36.9 × 18.4 cm

稲を守ろうとする人間の道具が、雀の足場になってしまった。頭に葉を載せた狐ほど大きな身ぶりはなくても、ここにも小さなおかしみがある。

この版画を出したのは、東京・両国の版元、大黒屋だった。店主が代々松木平吉を名のったこの店は、明治の早くから海外への販売を意識していた。1890年の広告には、ワシントンD.C.や上海への輸出実績まで記されている。古邨が仕事をするころには、日本の絵を国外へ届ける道が、すでに店の商いになっていた。

もう一つの版元、滑稽堂も古邨の花鳥版画を出版した。両店が出した古邨の版画は、主に日本を訪れた海外からの旅行者に売られた。庵原は、『浮世絵師伝』が版画の客について言う「日本土産」が、古邨の花鳥版画にも当てはまると見ている。

なぜ、その客に古邨の絵が向いていたのか。庵原は、版元が古邨を起用した理由をこう読む。浮世絵から連想される花鳥の画題や構図に、欧米の客の好みに合う写実性と色調を加えたところだ。

雀は、画家が若いころから描いてきた画題だった。同時に、版元にとっては、海の向こうへ届けられる商品でもあった。

同じ烏に、二つの空がある

《雪の柳に烏》には、大黒屋が出した摺りが二つあり、背景の色が違う。アムステルダム国立美術館の記録では、一方は灰色、もう一方はオレンジ色の背景とされている。

小原古邨
雪の柳に烏(大黒屋版)
1900–1930 木版多色刷 35.5 × 18.5 cm
小原古邨
雪の柳に烏(大黒屋版・別摺)
1900–1930 木版多色刷 35.5 × 18.5 cm

並べると、烏と枝の構図はそのままに、背景の色で一枚の受け止め方が変わる。季節や時刻は決めずにおく。確かなのは、同じ図を違う色で仕上げる摺りの技である。

古邨の版画は、原稿の作り方から、輪郭線を中心にした浮世絵とは違っていた。絹に筆で描いた、色のある日本画を原稿にしたのである。版画より大きな画稿を写真に撮り、版木を彫るための下絵にした。

その筆の跡を、彫師が木に彫り、摺師が紙に摺る。線の細かさだけでは足りない。筆のかすれや、墨の濃淡まで版画に移している。

《月に桜と烏》について、庵原は、桜の幹に輪郭線を使わず、摺りを重ねて墨のにじみのような濃淡を出していると指摘する。烏の羽毛には、古邨の筆のかすれまで表されているという。

小原古邨
月に桜と烏(大黒屋版)
1900–1930 木版多色刷 36.3 × 19.2 cm

この烏の羽には、伝統的な錦絵の技法である正面摺りも使われている。色を摺り終えた紙を、絵が裏返しになっていない専用の版木の上に表向きに置き、表から強く擦る。紙の繊維を磨くことで、黒い羽に艶を出すのである。

《踊る狐》にも、完成前の試しの摺りや、下絵を作るための資料が残っている。狐の頭の葉も、画家が思いついて描けば、それで紙の上に届くわけではない。古邨の筆と、彫師・摺師の手を経て、何枚もの版画になる。

「邨」だけは、手放さなかった

明治末には、大黒屋も滑稽堂も勢いを失っていた。古邨は1912年に「祥邨」と名を改め、いったん肉筆画の仕事へ戻った。

1923年の関東大震災で、大黒屋は店と版木蔵を焼失した。再建して営業を続けたものの、1931年に五代目松木平吉が没すると、店は姿を消す。版画を支えた店も、災害の外にはいられなかった。

震災後、大黒屋の画家・職人・顧客を引き継いだというのが、渡邊版画店である。版元の渡邊庄三郎は、絵師・彫師・摺師が協力する従来の方法で、新しい木版画を作ろうとしていた。渡邊は、こうして作る版画を「新版画」と呼んだ。

昭和に入ると、古邨は渡邊の依頼で、再び花鳥版画を作り始める。美人画の橋口五葉、風景画の川瀬巴水らを抱えていた渡邊にとって、海外で人気の花鳥画を描け、明治からの実績もある古邨は「うってつけの人材」だった、と古川幹夫は書く。

渡邊版の《雪中群鷺》には、「祥邨」の名がある。庵原によれば、この時期には画題を引き継ぎながら、前景を大きく扱い、鮮やかな色や摺りの効果を強く打ち出すようになった。

小原古邨
雪中群鷺(渡辺版)
1927 木版多色刷 36.2 × 23.6 cm

渡邊版の《雨中の鷺》には、同じく伝統的な錦絵の技法である空摺りが使われている。版木に絵の具を付けずに強く摺り、彫った柄の凹凸を紙に浮き上がらせる技法だ。空摺りによって、鷺の白い羽が紙から浮き上がる。

小原古邨
雨中の鷺(渡辺版)
1928 木版多色刷 36.2 × 23.6 cm

1931年に渡邊版画店から出た《萩に兎》も、祥邨の名で出た一枚である。

小原祥邨《萩に兎》(1931年、渡邊庄三郎版、トレド美術館 1939.450)。出典:Toledo Museum of Art「Rabbits and Bush Clover」
小原祥邨《萩に兎》(1931年、渡邊庄三郎版、トレド美術館 1939.450)。出典:Toledo Museum of Art「Rabbits and Bush Clover」

別の版元、酒井好古堂と川口商会が組んで出した版画では、「豊邨」の名も使った。古邨・祥邨・豊邨は、同じ一人の画家である。店が替わり、名前が替わっても、師の華邨から受け継いだ「邨」の字は残した。

狐を踊らせた手は、別の名を署名するようになっても、生きものを描き続けていた。

2〜3ドルの鳥を、いちばん多くの客が買った

1930年3月、米国オハイオ州のトレド美術館で、日本の現代版画を紹介する展覧会が開かれた。10人の画家による342点が並び、会場で作品が販売された。

会期中、最も多くの米国人が買ったのは、祥邨の花鳥版画だった。出品した21点は、すべて渡邊版。値段は2〜3ドルで、10〜20ドルの出品作もある中では、手を伸ばしやすい価格だった。

買った人が皆、同じ理由で選んだとは言えない。ただ、2〜3ドルなら、旅先でも展覧会の帰りでも、一枚買って部屋に掛けられる。

翌1931年、渡邊版画店から刊行された井上和雄の『浮世絵師伝』は、祥邨の草木や鳥獣を、写生に基づき、さらに美しく整えたものと評している。そして、その絵が向く場所をこう記した。

「室内の装飾品に最も適応せり」

展覧会で評価を競う絵から、誰かの部屋に置かれる絵へ。庵原も、米国で古邨の版画が好まれた背景に、手頃な価格と、職人の手仕事による室内の装飾品であることを挙げている。

1940年、日本の版画を集める米国人ロバート・ムラーが、新婚旅行で来日した。約4か月の滞在中、渡邊版画店で3586枚を購入し、そのうち1600枚、32作品が古邨のものだった。

一人の収集家の大量の買い付けで、一般の客の買い方とは違う。それでも、海外で古邨の版画が求められ続けていたことは、この桁から分かる。

古邨は1945年に没した。狐や雀や烏は、画家より長く、買い手の手元に残った。

作者を知らずに、白鷺を買う

国内で古邨を初めて本格的に紹介したのは、1998年の平木浮世絵美術館の展覧会だった。海外へ渡った作品の多さに比べ、日本でまとまって見られる機会は遅れてやってきた。

2001年には、アムステルダム国立美術館で大規模な展覧会が開かれ、作品集『Crows, Cranes & Camellias』も刊行された。

その序文で、オランダの収集家ヤン・ペレーは、最初の一枚を作者の名前も知らずに買ったと振り返っている。雪の夜の白鷺の版画だった。友人に教えられ、そこにある「祥邨」の署名が古邨を指すと知ったという。

集めるうちに、画家がどの名前を使い、どの版元が出版したのかが知りたくなった。答えてくれる本がなかったため、自分で本を作ることにした、とペレーは序文に書いている。

狐の頭の蓮の葉に目がとまる。鳥を追い払う道具に、雀がとまっているのが気になる。その小さな引っかかりから、作者の名を知り、版元をたどり、もう一枚を探し始めることがある。

ペレーも、まず白鷺を一枚買った。古邨についての本を作るのは、そのずっと後のことだった。

出典

注

  • 古邨の生年は、『浮世絵師伝』が明治10年(1877年)とし、ボストン美術館の作家表記は1878年とする。
  • 1930年のトレド美術館展とその値段は、庵原論文が Amy Reigle Newland の研究(2001年)を引いて述べるところによる。1940年のムラーの購入は、庵原論文が小山周子の研究(2010年)を引いて述べるところによる。
  • 「豊邨」の名をいつから使ったかは、典拠によって1929年から1935年ごろまで幅があるため、本文では年を挙げなかった。
  • 図版は、ボストン美術館(Wikimedia Commons 経由)とアムステルダム国立美術館の所蔵品の画像による。

図版

  • 小原古邨《踊る狐(大黒屋版)》 — CC0 / Wikimedia Commons出典
  • 小原古邨《鳴子に雀(大黒屋版)》 — CC0 1.0(Rijksmuseum) / Rijksmuseum, Amsterdam(RP-P-1999-472, 館の題 “Ringmus op vogelverschrikker”)— 版元 松木平吉出典
  • 小原古邨《雪の柳に烏(大黒屋版)》 — CC0 1.0(Rijksmuseum) / Rijksmuseum, Amsterdam(RP-P-1999-515, 館の題 “Kraai op besneeuwde tak”)— 版元 松木平吉出典
  • 小原古邨《雪の柳に烏(大黒屋版・別摺)》 — CC0 1.0(Rijksmuseum) / Rijksmuseum, Amsterdam(RP-P-1999-516, 館の題 “Kraai op besneeuwde tak”)— 版元 松木平吉出典
  • 小原古邨《月に桜と烏(大黒屋版)》 — CC0 1.0(Rijksmuseum) / Rijksmuseum, Amsterdam(RP-P-1961-155, 館の題 “Kraai bij volle maan”)— 版元 松木平吉出典
  • 小原古邨《雪中群鷺(渡辺版)》 — CC0 1.0(Rijksmuseum) / Rijksmuseum, Amsterdam(RP-P-1999-550, 館の題 “Zilverreigers in de sneeuw”)— 版元 渡辺庄三郎出典
  • 小原古邨《雨中の鷺(渡辺版)》 — CC0 1.0(Rijksmuseum) / Rijksmuseum, Amsterdam(RP-P-1999-548, 館の題 “Zilverreiger in de regen”)— 版元 渡辺庄三郎出典

この記事に出てくる作家

小原古邨

Ohara Koson

1877–1945

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