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小原古邨

小原古邨

おはら こそんOhara Koson
246 作品

小原古邨(1877〜1945)は、花鳥の木版画で知られる絵師である。金沢に生まれ、花鳥画を得意とした日本画家の鈴木華邨に学んだ。「古邨」の「邨」は、師の華邨から受けた一字である。のちに「祥邨」「豊邨」と名を変えても、この字は残した。版画はおよそ550点あるとみられる。

はじめは日本画家として、明治32年(1899年)から展覧会に出品した。古邨の生前に出た『浮世絵師伝』(1931年)には、アメリカ人のフェノロサの指導を受け、アメリカへ売る花鳥画を多く描いたとある。

明治34年(1901年)、木版の画帖『花鳥画帖』を出した。明治40年(1907年)前後からは、版元の大黒屋と滑稽堂から花鳥版画を出した。どちらも、早くから海外に売り先を広げようとしていた店である。明治45年(1912年)までの大黒屋の品目を書き留めた覚え書きがある。そこには、古邨の図が少なくとも250種あり、安いものは1枚7銭とある。これらの版画は、おもに日本を訪れた欧米の旅行者に土産として売られた。

浮世絵の下絵は、墨で輪郭線を引くのがふつうである。古邨の下絵は絹に色まで塗ったもので、日本画とほとんど変わらない。版画よりもかなり大きい。この下絵を湿板写真に撮り、版画の大きさまで縮めた。写真の膜はガラス板から剥がして版木に貼り、その上から彫った。月に桜と烏では、桜の幹に輪郭線を彫らず、濃淡を摺り重ねて墨のにじみのように見せている。烏の羽には、下絵の筆のかすれまで残る。

明治の末に大黒屋と滑稽堂が衰えると、古邨は大正のはじめから肉筆画に戻った。大正15年(1926年)頃、渡邊庄三郎の求めで、ふたたび版画の下絵を描き始めた。渡邊は「新版画」を唱えた版元である。浮世絵と同じく絵師・彫師・摺師の分業で新しい版画を作り、欧米に向けて売っていた。古邨はその店から「祥邨」の名でおよそ100点を出している。明治の作より判が大きく、色も明るく鮮やかになった。川口商会と酒井好古堂が組んだ版元からは、「豊邨」の名で出した。渡邊への義理から名を分けたとされる。

昭和4年(1929年)、シカゴ美術館の小さな展覧会で祥邨の版画が紹介された。同館の学芸員は記事で雪中群鷺と雨中の鷺を挙げている。翌年にはオハイオ州のトレド美術館で日本の現代版画展が開かれ、10人の版画家の342点が並んだ。会期中の販売で最も多く買われたのは、祥邨の花鳥版画だった。値段は1枚2〜3ドルで、同じ展覧会の吉田博や橋口五葉の10〜20ドルより安かった。昭和15年(1940年)には、アメリカの収集家ロバート・ムラーが新婚旅行で日本を訪れ、渡邊の店で版画を3586枚買った。そのうち1600枚が祥邨だった。

昭和20年(1945年)1月、東京で没した。作品の多くが海外向けだったこともあり、日本では長く名前が知られなかった。国内で初めて本格的に紹介したのは、平成10年(1998年)に平木浮世絵美術館が開いた展覧会である。平成30年(2018年)には、実業家の原安三郎が集めた古邨の版画およそ230点を、茅ヶ崎市美術館が初めて公開した。会期中の10月には、NHKの「日曜美術館」が特集を組んでいる。翌年の太田記念美術館の展覧会は、1日の入館者数が同館の歴代2位になったという。

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