港を描く許しを美術館長が取りつけた
フランスの画家アルベール・マルケがハンブルクへ携えたのは、画家仲間のアンリ・マティスが書いた紹介状だった。1909年3月のことである。港で描く許しは、ハンブルク美術館の初代館長、アルフレート・リヒトヴァルクの仲立ちで得た。
マルケは川や海の風景を主に描いた画家だ。マティスとは、マルケが15歳でパリの装飾美術学校に入ったころからの友人だった。前年の1908年には、マティスが空けたセーヌ河岸のアトリエに移り、その冬は裸婦の連作に取り組んでいた。そこから今度は、ドイツの港へ向かった。1909年からはフランスの画家もハンブルクを訪れるようになった、とハンブルク美術館は書く。マルケはその一人だった。
紹介状の宛先や文面、港で描くのになぜ許しが要ったのかは分かっていない。仲立ちを裏づけるのは、1909年3月15日付でリヒトヴァルクがマルケに書いた手紙である。
この館長は、以前から画家をハンブルクに招き、町の風景や肖像を描かせていた。マルケの旅がその注文だったとは確かめられないが、仲立ちに立ったのは、外から来た画家に町を描かせてきた人だった。
マルケは初め下宿に泊まり、のちに港の近くへ移った。滞在は5月初めまで。ハンブルク美術館の記録によれば、この旅にかかわる油彩は少なくとも14点あり、いまは各地に分かれている。
マルケは同じ倉庫を6枚も描いた
そのうち6点は、塔のある倉庫を望む同じ眺めを描いている。ハンブルク美術館にある《ハンブルク港で》は、その1点だ。
描かれたのは、カイザーカイシュパイヒャーAと呼ばれた倉庫と信号塔。制作場所は、ホテル「オールド・コマーシャル・ルームズ」の2階の窓だったらしい。所蔵記録も推定として書く。この眺めを描いたものには、油彩6点のほかに墨の素描が1点ある。
この倉庫は、いまコンサートホールのエルプフィルハーモニーが立つ場所にあった旧倉庫だと考えられる。名前も、塔があったことも重なる。その旧倉庫には、荷物を収めるほかに、船へ時刻を知らせる役目があった。
塔には「報時球」という装置があり、毎日正午になると黒い球が落ちた。出港する船の船長たちは、それを見て時計を合わせた。時刻の決定と装置の操作は、ハンブルク天文台から行われていた。
マルケが繰り返し向き合った倉庫がこの旧倉庫なら、そういう役目を持つ建物だったことになる。ただし、絵の塔の頂にある小さな丸が、この報時球なのかは確かめられない。
6枚という数は、その建物のある眺めに何度も戻った跡とも読める。
エルミタージュの港は記録では「フランス」作
一方、エルミタージュ美術館の《ハンブルク港》は、倉庫を描いた6点には含まれない。ハンブルク美術館の記録では、それらとは別の、少なくとも8点のうちの1点に数えられている。
こちらも1909年の作で、縦66.5×横80cm。ハンブルク美術館の絵(縦66×横80cm)とほぼ同じ大きさだ。ただ、ホテルの窓から描いたという話は、この絵にはそのまま当てはめられない。
それどころか、エルミタージュの作品記録では、制作地の欄に「フランス」とある。ハンブルクで描いたのか、帰国後に描いた、あるいは仕上げたのか。マルケが5月10日にパリへ戻ったことは分かっているが、どちらとも決められない。
題に港の名があっても、画家が絵筆を置いた場所までは分からない。
もう1点、同じ1909年の《ハンブルクの小型汽船》は、現在イェール大学美術館にある。
マルケが没した翌年の1948年、パリの国立近代美術館で回顧展が開かれた。その図録には、この絵と構図の一致する「La vedette à Hambourg」が、個人蔵として白黒の図版で載っている。
エルミタージュの絵と並べると、同じ滞在にかかわる作品でも、港の色が違う。灰色を中心にしたイェールの絵に対し、エルミタージュの絵では暖かい色が目立つ。ただし、それをそのまま晴天と雨天の記録とは読めない。色を選び、組み合わせた画家の仕事が間にある。
港の形を頼るほどマルケは自由になる
マルケのハンブルクの連作を、1948年の回顧展図録で高く評価したのが、執筆者のクロード・ロジェ=マルクスだった。彼はこれらを、雪や洪水の連作などとともに、「ほとんど単色」で描かれた、たぶん最も美しい風景に数えている。
ところが、その文章に挙がる色は、灰、黒、白だけではない。黄土色とサーモンピンクも入っている。ほとんど単色という評は、色彩がないという意味ではなかった。限られた色の、ごく近い違いを描き分ける力への賛辞だった。
エルミタージュの絵でも、黄土色の水面に、ところどころ薄紅の筆が入る。この評に照らせば、その暖かさも、灰色の港の例外というより、限られた色の中での振れ幅として見られる。
ロジェ=マルクスは制作の手順にも触れている。マルケの絵はたいてい一度の制作で仕上げられ、まず全体の骨組みが決められたという。色を含ませた筆をペンや鉛筆のように使い、帆柱や煙突、橋や河岸の線を一気に引いた、とも書いている。
線を一気に引くことは、残す線を選ぶことでもあったのだろう。どの線を残せば橋が岸を結び、船が水の上のどこにいるかが決まるのか。
ハンブルクの旅では、油彩と並んで墨の素描も描かれた。港には、画家が線でつかめる形がいくつもあった。ロジェ=マルクスが、橋や倉庫や船のしっかりした形を頼りにするときほどマルケは自由になると評したのも、腑に落ちる。
国がたたえた収集をソ連が「害」と呼ぶ
エルミタージュの《ハンブルク港》には、描かれたあとの、もう一つの旅がある。
かつての持ち主は、モスクワの商人で工場主でもあった美術収集家、セルゲイ・シチューキンだった。彼はフランスの近代絵画を集め、1908年には自邸で、希望する人に収集を見せる画廊を開いた。たいてい自ら客を迎え、絵を説明したという。
1910年には、パリのドリュエ画廊でマルケの作品を何点も買っている。そのときの購入作に《ハンブルク港》が含まれていたかは分からないが、この絵はシチューキンの収集から、1918年に国の収集へ入った。
シチューキンの画廊は1918年11月に国有化され、翌春には国立の美術館として公開された。1923年には、イワン・モロゾフの収集と一つになり、モスクワの国立近代西洋美術館となった。
国は1918年の布告で、これらの収集を偉大なヨーロッパの巨匠たちの比類ない収集と呼び、国民の啓蒙に国家的な意味を持つとした。ところが30年後、国家の評価は逆転する。
1948年3月6日、ソ連閣僚会議は美術館の廃止を決めた。決定は収集を「形式主義的な見方と、帝国主義時代の退廃したブルジョワ文化への追従の温床」と呼び、ロシアとソヴィエトの芸術の発展に大きな害を与えたものとした。作品はプーシキン美術館とエルミタージュ美術館に分けられ、収蔵庫に入った。
《ハンブルク港》がエルミタージュに移ったのは、この1948年である。この絵は、見せようとした収集家の手を離れ、見せる価値そのものを国家から否定される時期を通って、いまの所蔵先に至っている。
館長の仲立ちで、マルケは港で描く許しを得た。それから39年後、描かれた港の1枚は、美術館を閉じる決定によって移されることになった。
ハンブルクに絵が来た年、倉庫が消えた
ハンブルク美術館の《ハンブルク港で》は、別の道をたどった。
1910年、この絵はパリのドリュエの画廊で開かれたマルケの展覧会に出て、同じ年にJ・ガスケという人物が買った。そこから1963年までには、持ち主の分からない時期が2度ある。来歴に、注意を要する画商の名が含まれることもあり、所蔵記録では現在も、来歴は調査中で、未解明の点と懸念があるとされている。
この絵がハンブルクの収集に入ったのは、リヒトヴァルクが館長だった時代ではない。マルケの滞在から54年後、1963年5月のことである。ハンブルク美術収集振興財団(今のハンブルク美術収集財団)がパリの画廊からこの絵を買い、美術館に長く預けた。
その1963年は、描かれた倉庫が取り壊された年でもあった。第二次世界大戦で損傷した旧倉庫は爆破された。爆破の月は確かめられず、購入とどちらが先かは言えないが、建物を失った年に、その建物を描いた絵が町の収集に加わったのである。
マルケが倉庫を描いたらしい窓のあったホテルも、1945年に爆弾で壊れた。旧倉庫の場所には1966年に別の倉庫が建ち、2017年には、その建物の上に新しい階を重ねたエルプフィルハーモニーが開いた。
紹介状を携えてやって来たマルケは、5月には町を去った。絵はその後もそれぞれ旅を続け、エルミタージュへ、イェールへ、そしてハンブルクへと行き先を分けた。
かつて正午を知らせた塔の倉庫だったと考えられる建物を、マルケは6枚も描いた。その1枚が町の収集に入ったのは、倉庫そのものが失われた年だった。
出典
- ハンブルク美術館「Im Hamburger Hafen」(HK-5080。解説・来歴とその注)
- ハンブルク美術館「Hamburger Ansichten」
- ハンブルク美術館「Lichtwark revisited」
- Deutsche Biographie「Lichtwark, Alfred」
- エルミタージュ美術館「Port of Hamburg」(ГЭ-8907。ウェイバックマシンの写し)
- イェール大学美術館「Vedette in Hamburg」(1983.7.9)
- 『Albert Marquet 1875-1947』パリ国立近代美術館、1948年(ジャン・カスー、ジョルジュ・ベッソン、クロード・ロジェ=マルクスの文と年譜・目録)
- パリ市立近代美術館「Albert Marquet, peintre du temps suspendu」プレス資料、2016年
- エルプフィルハーモニー「Elbphilharmonie」(建設の年表)
- ハンブルク天文台・ハンブルク天文台振興会「Modell des Hamburger Zeitballs」2011年
- Petra Schellen「Blick ins Universum: Astronomie für den Hafen」taz、2022年6月26日
- newestmuseum.ru「Альбер Марке」「Гамбургский порт」「Щукин Сергей Иванович」「История ГМНЗИ」
注
- リヒトヴァルクの手紙の日付と、《ハンブルク港で》の来歴は、ハンブルク美術館の所蔵記録による。
- ロジェ=マルクスの評と、1948年の国の決定の言葉は、原文から訳した。
- 《ハンブルク港で》の図は、ハンブルク美術館の所蔵記録の頁に載る写真による(SHK / Hamburger Kunsthalle / ARTOTHEK, Foto: Elke Walford)。そのほかの図版は、ウィキメディア・コモンズの画像による(エルミタージュ美術館・イェール大学美術館の所蔵品)。
この記事に出てくる作家

アルベール・マルケ
Albert Marquet
1875–1947

アンリ・マティス
Henri Matisse
1869–1954
