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土田麦僊

土田麦僊

つちだ ばくせんTsuchida Bakusen
12 Artworks

土田麦僊(つちだばくせん、1887〜1936)は、舞妓や草花を描き、西洋近代絵画と大和絵の伝統を結びつけようとした日本画家である。自分の画室には、所蔵するポール・セザンヌの絵を掛けて刺激を受け、芥子や朝顔は種から育てて写生を重ねた。西洋の絵画と身近な草花の両方に、制作の手がかりを求めていた。

明治20年(1887年)、佐渡の農家に生まれた。京都に出て智積院に入ったものの、画家への志を捨てきれず、得度式の前日に寺を飛び出した。鈴木松年のもとで絵を学び、明治37年(1904年)には竹内栖鳳に入門する。明治41年(1908年)、罰が第2回文展で三等賞を受け、東京にも名を知られるようになった。

京都市立絵画専門学校では、小野竹喬や村上華岳らと学んだ。島の女海女にはポール・ゴーギャンらの西洋絵画から受けた影響が強く表れている。一方で、かつて身を置いた智積院に伝わる長谷川等伯らの障屏画にも目を向けた。大正7年(1918年)には、文展の審査への不満も重なり、竹喬や華岳らと国画創作協会を結成。第1回展に湯女を発表した。翌年、帝展から無鑑査の待遇を与えられても出品せず、自分たちの展覧会で大作を発表し続けた。

大正10年(1921年)からヨーロッパを巡り、近代絵画に加えてルネサンス絵画やポンペイの壁画にも心を動かされた。帰国後、大正13年(1924年)の第4回国展に出した舞妓林泉では、祇園の舞妓をモデルに、南禅寺の塔頭・天授庵の庭を参考にした。セザンヌの影響を受けながら日本の美を追求したこの作品によって、「舞妓の麦僊」と呼ばれるようになる。

昭和3年(1928年)、国画創作協会の日本画部が解散する。翌年、麦僊は《罌粟》を出品し、12年ぶりに官展へ復帰した。昭和5年(1930年)には帝展の審査員となり、明粧を発表する。その一方、小規模な展覧会では花鳥画を中心に出品し、人物画と並行して草花を描き続けた。

最晩年に取り組んだのは、昭和10年(1935年)秋に朝鮮へ渡って取材した《妓生の家》だった。翌昭和11年(1936年)2月、帝展の改組をめぐって京都の画家たちが不出品を決めると、西山翠嶂・西村五雲と連名で声明を発表した。5月24日には同じ3人で文部大臣に意見書を提出している。

しかし、《妓生の家》の制作中に病を得て、5月27日に大学病院へ入院。6月10日、膵臓癌のため京都で世を去った。満49歳だった。《妓生の家》は未完のまま残され、現在は韓国の国立中央博物館に所蔵されている。麦僊の墓は、若い日に画家を志して飛び出した智積院にある。

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