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西村五雲

西村五雲

にしむら ごうんNishimura Goun
3 Artworks

西村五雲は、《白熊》で名を知られた日本画家である。動物の生態を生き生きととらえる描写は、師の竹内栖鳳を凌ぐとも評された。花や魚、野菜を描いた小品も数多く残している。

明治10年(1877年)、京都に生まれた。本名は源次郎。明治23年(1890年)に岸竹堂のもとへ住み込み、身の回りの用をしながら絵を学んだ。この頃の作品はほとんど残っていない。入門から7年後に竹堂が没し、明治32年(1899年)には栖鳳に師事した。

明治40年(1907年)、《白熊》が第1回文展で三等賞を受けた。「咆哮」とも呼ばれるこの出世作は、京都市動物園での写生をもとに描いたと伝わる。大正2年(1913年)には京都市立美術工芸学校の教諭となり、同年の第7回文展で《秋興》が褒状を受けている。

その後、神経衰弱で病床に伏し、長く大作の制作から遠ざかった。病のため大作は少ないが、花鳥や魚貝、菜果を描く小品に多くの仕事が残る。梅とミミズクを取り合わせた寒梅もその一つである。熊から梅の枝のミミズクまで、五雲が目を向けた生きものは幅広い。

絵を届ける先は、展覧会だけではなかった。大正12年(1923年)には、ゆかりのある京都市立本能小学校の校舎新築を祝い、《油断大敵》を寄贈した。翌年には京都市立絵画専門学校の教授となり、画塾の晨鳥社でも後進を育てた。門下の山口華楊には、栖鳳の画塾の研究会にも加わるようすすめている。

昭和に入ると、官展の出品作がふたたび評価を受ける。昭和6年(1931年)の第12回帝展に出した《日照雨》(そばえ)は文部省に、翌年の第13回帝展の《秋茄子》は宮内省に買い上げられた。海外の日本美術展にもたびたび出品し、籠に盛った瓜と鳥の雛を描く《閑日》もその一つだった。昭和8年(1933年)に帝国美術院会員、昭和12年(1937年)に帝国芸術院会員となる。同年の三越綜合展には、前脚を舐める《虎》を出している。

二人の師から学んだものは、五雲自身の絵にどう生かされたのか。没後の『日本美術年鑑』には、竹堂と栖鳳の画風を取り入れ、とりわけ栖鳳の筆意を受け継ぎながら、自らの写実から独自の領域を拓いたとある。「渾然として穏雅な画格を完成して居た」と評されている。

昭和13年(1938年)9月16日、持病の糖尿病で入院していた京都府立病院で没した。享年62。晨鳥社はいったん解散したが、門人たちの協議によって同年11月に新たに結成された。五雲のもとで学ぶ場は、弟子たちの手に引き継がれた。

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