
河鍋暁斎
かわなべ きょうさいKawanabe Kyosai
147 Artworks
明治の東京で、筆の速さと引き出しの多さで暁斎に並ぶ絵師はいなかった。河鍋暁斎(1831〜1889)は下総古河に生まれ、数え七歳で歌川国芳の門を叩く。神田川で拾った生首を写生して周囲を仰天させた少年の逸話は、この絵師の本質——見たものは何でも描く——へ真っ直ぐつながっている。十歳で駿河台狩野派に移ると、師の前村洞和は彼を「画鬼」と呼んだ。戯画の国芳と、粉本主義の狩野派。ふたつの水脈を一身に引いたことが、暁斎を唯一無二にした。
明治3年(1870年)、書画会の席画が官憲の忌諱に触れて投獄され、笞五十を受ける。この筆禍を機に「狂斎」の号を「暁斎」へ改めたが、筆は少しも大人しくならなかった。《風流蛙大合戦之図》では蛙の軍勢が幕末の世相を戦い、地獄太夫の打掛には髑髏が舞い、閻魔も幽霊も骸骨も、暁斎の紙の上では同じ生気で動き回る。
第二回内国勧業博覧会(1881年)に出品した《枯木寒鴉図》は、鴉一羽の水墨に百円という法外な値を付けて世間を騒がせ、妙技二等賞牌を得た。「鴉の値ではない、長年の修業の値である」——この啖呵は、狩野派の修業と浮世絵の速筆を兼ね備えた絵師の自負そのものだった。お雇い建築家ジョサイア・コンドルが弟子入りして「暁英」の号を授かった話も名高い。鹿鳴館やニコライ堂を設計したイギリス人が、絵日記を付けるこの日本人の傍らで筆を執っていたのである。
能狂言、仏画、幽霊画、戯画、春画、新聞錦絵——明治22年(1889年)に没するまで、暁斎は江戸絵画の技術の全目録を、笑いと迫力ごと明治へ運び続けた。
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