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ジャン=アントワーヌ・ヴァトー

ジャン=アントワーヌ・ヴァトー

Jean-Antoine Watteau
15 Artworks

ジャン=アントワーヌ・ヴァトーは、イタリア喜劇の役者や、野外で恋を語り音楽を楽しむ男女を描いたフランスの画家である。男女の集いを主題とする雅宴画(フェート・ギャラント)で知られるが、パリでの出発点は、店で売る複製画を量産する仕事だった。

1684年、フランス領になって間もないヴァランシエンヌに、屋根職人の子として生まれた。1702年にパリへ出て、ノートル=ダム橋の店で風俗画や宗教画を複製した。

1705年頃、演劇の場面を描くクロード・ジローの工房に入った。そこで知ったのが、イタリアの即興喜劇コメディア・デラルテの登場人物たちである。役者たちは、その後も繰り返し描く主題となった。

続いて、室内装飾家クロード・オードラン3世のもとで働いた。オードランはリュクサンブール宮殿の管理人も務めており、ヴァトーはそこでピーテル・パウル・ルーベンスがマリー・ド・メディシスのために描いた連作を見た。のちには金融家で収集家のピエール・クロザの邸に住み、ルーベンスやヴェネツィア派の絵に親しんだ。

1712年、王立絵画彫刻アカデミーの準会員になった。正式な入会のために提出する作品は、主題を自由に選ぶことを許された。それでも提出までに5年を要し、何度も督促を受けた末、1717年にシテール島への巡礼を納めた。

幼い頃から体が弱く、名医リチャード・ミードの診察を受けるためロンドンへ渡ったが、体調はかえって悪くなった。ミードのためにはイタリア喜劇の俳優たちを描いている。

1720年にパリへ戻ると、友人の画商エドム=フランソワ・ジェルサンの家に身を寄せた。そこで自分から申し出て描いたのがジェルサンの看板だった。掛ける先は、かつて複製画の仕事をしていたノートル=ダム橋にある店である。ジェルサンによれば、制作したのは朝だけで、8日間。看板として店に掛かったのは15日だけだった。

翌1721年、パリ近郊で36歳の生涯を閉じた。死因は結核と考えられている。生前に作品を知る人は限られた愛好家にとどまったが、死後、庇護者ジャン・ド・ジュリエンヌが作品を版画にして出版した。1726年と1728年に素描、1735年に絵画の版画集が刊行され、ヴァトーの作風はヨーロッパへ広まった。

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