流派
土佐派
とさは
土佐派(とさは)は、平安時代以来のやまと絵の伝統を受け継いだ画派で、室町時代から幕末まで、おもに宮廷の絵所を拠点にした。15世紀の初めに藤原行広が「土佐」を名乗ったのが家名の始まりとされ、室町時代後期の土佐光信の代に宮廷と幕府の絵所をあわせ預かって栄えた。1569年に宗家が絶えて一時衰えたが、1654年に土佐光起が宮廷の絵所預に復して再興し、狩野派と並ぶ画派として幕末まで続いた。
出典: コトバンク「土佐派」(デジタル大辞泉・改訂新版 世界大百科事典(吉田友之)・日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典・山川 日本史小辞典・マイペディア・旺文社日本史事典、2026-10-10 取得) https://kotobank.jp/word/土佐派-105067
年表・沿革
1352
- このころ藤原行光(中御門行光)が宮廷の絵所預となり、のちに土佐光信は行光を一派の祖と仰いだ。
1406
- 藤原行広が『教言卿記』に「土佐将監」と記され、これが「土佐」の家名を確かめられる最初の例とされる。
1469
- 土佐光信が宮廷の絵所預となった。
1491
- 光信がこの年から翌年にかけて土佐広周の所領と幕府の絵師職を引き継ぎ、宮廷と幕府の両方の絵所を預かる土佐派の工房を固めた。
1569
- 光信の孫の光元が戦死して土佐家は絵所預の地位を失い、一門の土佐光吉が和泉国の堺で画系をつないだ。
1634
- 土佐光則が、子の光起とともに堺から京都へ移った。
1654
- 土佐光起が宮廷の絵所預に任じられて土佐家を再興し、この年の内裏の障壁画も手がけた。
1662
- 土佐光吉・光則に学んだ住吉如慶が、後西天皇の命で住吉を名乗り、住吉派を興した。
関連人物
- 一派の祖とされる絵師 藤原行光
南北朝時代の宮廷の絵所預。中御門行光とも
- 「土佐」を名乗った最初の絵師 土佐行広
1414年の『融通念仏縁起絵巻』の筆者の一人
- 土佐光茂の長男 土佐光元
1569年に戦死し、土佐家は絵所預の地位を失った
- 土佐光茂の門人 土佐光吉
光元の死後、和泉国の堺で画系をつないだ
- 土佐光吉の子(弟子とも) 土佐光則
1634年に子の光起と京都へ移り、土佐家の再興を図った
- 住吉如慶 〜1662
堺で土佐光吉・光則父子に土佐派の画法を学び、土佐広通(土佐光陳とも)と称した。寛文2年(1662年)に後西天皇の勅命で住吉を名のり、土佐派から独立して住吉派を興した。東京国立博物館は、如慶を土佐派から出て住吉派をおこした画家とする。
