流派
海上派
かいじょうは
海上派(かいじょうは)は、清朝の末から中華民国の初めにかけて、国際貿易の都市になった上海に集まり、自分の画を売って暮らした画家たちの総称で、海上画派・海派ともいう。一人の師に始まる画系ではないが、画家たちは題材や画風・技法と、上海の商人の後ろ盾を共有した。張子祥や、任熊・任薫・任預・任頤(任伯年)の「四任」らが活躍した前期をへて、詩・書・画・印にすぐれた呉昌碩が領袖となった後期には、その写意の画風が一世を風靡した。
出典: 松村茂樹「海上画派の図録類と学画法をめぐって」(57号、1999年6月、JST 中国・アジア研究論文データベース、2026-10-12 取得) https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/download/6513、筑波大学「松村茂樹 博士(文学)学位論文『呉昌碩研究』内容と審査の要旨」(2008年、つくばリポジトリ、2026-10-12 取得) https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/21945/files/B2353.pdf、ゲッティ研究所「Shanghai school」(Art & Architecture Thesaurus 300106504、2026-10-12 取得) https://vocab.getty.edu/page/aat/300106504、zh.wikipedia「海上畫派」(2026-10-10 版、2026-10-12 取得) https://zh.wikipedia.org/wiki/海上畫派、陳俊珺「海派“弄潮儿”,在这里“重逢”」(解放日報、2025-11-14、澎湃新聞に転載、2026-10-12 取得) https://www.thepaper.cn/newsDetail_forward_31971075、コトバンク「任頤」(改訂新版 世界大百科事典(遠藤光一)、2026-10-12 取得) https://kotobank.jp/word/任頤-1176094
年表・沿革
1839
- 常熟の画家・蒋宝齢が上海の城隍廟の小蓬莱閣で「小蓬莱書画雅集」を始め、のちに「前海派」の代表とされた。
1842
- 南京条約で上海が開港し、貿易で栄える街に、画を売って暮らす画家が各地から集まるようになった。
1875
- 任伯年が弟子の俞達夫と豫園の得月楼に「飛丹閣書画会」を作り、雅集と作品の販売と宿を兼ねたこの会が、上海の画家の集まる場になった。
1909
- 高邕・楊逸・呉昌碩・王一亭らが豫園の得月楼で豫園書画善会を発起し、人物画家の銭慧安を会長に推した。
1915
- 呉昌碩が、上海で最も権威ある書画団体とされた海上題襟館金石書画会の第2代会長になった。
1927
- 呉昌碩が没し、会長になった1915年からこの年までを「呉昌碩領袖時代」とみる研究がある。
関連人物
- 前期の画家 張子祥
松村茂樹は、任伯年とともに前期の海上画派で活躍した画家に挙げる
- 前期の中心人物 任熊
浙江蕭山の人。弟の任薫、子の任預、任頤(任伯年)とともに「四任」と呼ばれ、派の中核をなした
- 前期の画家 任薫
任熊の弟。「四任」の一人
- 前期の画家 任預
任熊の子。「四任」の一人
- 書家・画家・篆刻家 趙之謙
濃い不透明な色を太い筆で塗った大きな花卉の掛軸で、上海の花卉画を広めたとされる。上海に長く住んで画を売った形跡はなく、派の祖とみるかには異論がある
- 画僧 虚谷
清末の僧で、金魚の絵で知られる
- 画家 蒲華
上海の外の出で、上海に長く住んで画を売った
- 人物画家 銭慧安
上海の宝山の人。海派の人物画の先駆けとされ、1909年に豫園書画善会の会長に推された
- 実業家・書画家 王一亭
上海の実業界の実力者で、呉昌碩とともに書画界で重んじられ、銭慧安のあとの豫園書画善会を継いだ
- 後期の領袖
郷里の安吉から湖州・杭州・嘉興・蘇州をへて上海に至り、晩年は上海に住んで、海上画派の後期の領袖となった。
