団体
三科
さんか
三科(さんか)は大正期の前衛美術の団体で、三科造形美術協会あるいは三科造型美術協会とも呼ばれる。1924年(大正13年)10月、木下秀一郎の呼びかけで、未来派美術協会・アクション・マヴォ・第一作家同盟(DSD)など新興美術の団体にいた美術家たちが合流して結成した。1925年5月に銀座松坂屋で会員展を開き、築地小劇場で美術家たちが舞台に立つ「劇場の三科」を上演するなど、その活動は大正期の先鋭的な表現の頂点とされる。9月に上野の自治会館で開いた第2回展の会期中、共産主義運動との関わりをめぐる対立から解散の広告を出し、1年足らずで分裂した。
出典: artscape アートワード「三科」(足立元、2024年3月11日更新、2026-10-12 取得) https://artscape.jp/artword/5990/、五十殿利治「大正期の新興美術運動と「劇場の三科」」『藝叢』5号(筑波大学芸術学研究誌)80〜116頁(つくばリポジトリ、2026-10-12 取得) https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/44475/files/geiso_5_80.pdf、ja.wikipedia「大正期新興美術運動」(2025-10-13 版、2026-10-12 取得) https://ja.wikipedia.org/wiki/大正期新興美術運動、コトバンク「木下秀一郎」(20世紀日本人名事典・日本人名大辞典、2026-10-12 取得) https://kotobank.jp/word/木下秀一郎-1069997、「村山知義」『日本美術年鑑』昭和53年版、東京文化財研究所 物故者記事(2026-10-12 取得) https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9728.html
年表・沿革
1922
- 10月、未来派美術協会が第3回展を、二科に対抗する意味をこめて「三科インデペンデント」と名づけて開いた。
1924
- 10月、木下秀一郎の呼びかけで、未来派美術協会・アクション・マヴォ・第一作家同盟(DSD)などにいた美術家たちが合流して結成した。
1925
- 5月20日から25日まで、銀座の松坂屋で会員だけの三科会員作品展覧会を開き、67点を並べた。
- 5月30日の一夜、築地小劇場で、三科の美術家たちが舞台に立つ「劇場の三科」を上演した。
- 9月、上野の自治会館で第2回展を開いたが、共産主義運動との直接の関わりを求めるマヴォの岡田龍夫ら急進派と玉村方久斗ら穏健派が対立し、会期中に解散の広告を出した。
- 解散ののち、浅野孟府・神原泰・岡本唐貴・矢部友衛らが造型を結成した。
1926
- 三科の解散を受けて、中原実・大浦周蔵・仲田定之助らが単位三科を結成した。
関連人物
- 中心人物 木下秀一郎 1924〜
未来派美術協会の会員で、結成を呼びかけた。三科の展覧会に《近代的都市組織の一部臓器施設》などを出したが、解散後は制作を離れて医師として活動した
- 創立会員 神原泰 1924〜
アクションから加わり、解散後は矢部友衛・岡本唐貴らと造型を結成した
- 創立会員 村山知義 1924〜
マヴォから加わった。解散後はしだいに美術を離れ、演劇運動へ移った
- 創立会員 柳瀬正夢 1924〜
1925年の会員展に《貨物自動車》を出した
- 創立会員 岡本唐貴 1924〜
アクションから加わり、第1回展に《ペシミストの祝祭》、第2回展に《ルンペンプロレタリアA》《同B》を出した。解散後は造型を結成し、プロレタリア美術運動へ進んだ
- 創立会員 浅野孟府 1924〜
1925年の「劇場の三科」に出演した。解散後は神原泰らと造型を結成した
- 創立会員 矢部友衛 1924〜
アクションの分裂後に加わり、三科に《私の名はネオ・ロマンチストです》を出した。解散後は浅野孟府・岡本唐貴らと造型を創立した
- 会員 中原実 1924〜
解散後の1926年、仲田定之助・大浦周蔵らと単位三科を結成した
- 会員 仲田定之助 1924〜
ドイツから帰国して迎えられ、1925年の第2回展に彫刻《ブーベンコップのヴィナス》を出した。1926年に中原実らと単位三科を結成した
- 会員 大浦周蔵 1924〜
1926年に単位三科の結成に加わった
- 会員 吉田謙吉 1924〜
- 会員 渋谷修 1924〜
1922年には尾形亀之助とともに未来派美術協会の「三科インデペンデント展」の開催に奔走した
- 会員 横井弘三 1924〜
無審査で誰でも作品を出せる展覧会を理想とした
- 会員 ワルワーラ・ブブノワ 1924〜
ロシア帝国出身の美術家で、1922年に来日した
- 会員 玉村方久斗 1924〜1925
本名の玉村善之助の名で結成に加わり、1925年5月の会員展に《あんちとりぷしんの拒絶》、9月の第2回展に《タトリンまではヘヱラ・ヘラ・ヘラと昇りつめたり》を出した。第2回展の会期中の分裂では、共産主義運動との関わりを求める岡田龍夫ら急進派に、穏健派として強く反発した。
