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月岡芳年撃剣会之図
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明治6年(1873年)、旧幕府の講武所で剣術の師範だった榊原鍵吉は、木戸銭を取って剣術の試合を見せる「撃剣会」を東京府に願い出て、3月8日に許された。維新で職を失った剣術家に収入を得させるためで、相撲の興行にならった。『新聞雑誌』第94号は、4月26日に浅草門外で開場した会場を、土俵を築いて四本柱を立て、天幕を張った「全ク勧進相撲ノ構ヘト異ナラス」ものと伝える。
上の札の中央に「撃劔會」と「榊原鍵吉」を大きく掲げ、その左右に出場した剣客の名を並べる。版元は政田屋。
興行は評判を呼んで小屋が乱立し、質が落ちたうえ政治的な集まりにも使われて、同じ年の7月には東京府の布告で「七月三十一日限り」とされた。明治10年代に復活したのちは、腕の立つ剣客が警視庁に採用されていった。武道史の中村民雄らは、流派を越えて一定の規則で競う競技化の道を開いた点で、この興行を重要な現象と評している。









