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冨田溪仙

冨田溪仙

とみた けいせんTomita Keisen
6 作品

博多の職人町に生まれた冨田溪仙(1879〜1936)は、型を教わっては、その型からはみ出していく画家だった。本名は鎮五郎。はじめ福岡藩の御用絵師衣笠守正(探谷)に就いて狩野派の骨法を仕込まれたが、そこに落ち着かず京へ上り、四条派の都路華香の門を叩く。狩野の骨と四条の情趣――正反対の二つの筋を身につけながら、溪仙はそのどちらにも縛られなかった。

彼を変えたのは、師よりもむしろ二人の破格の画人だった。ひとりは博多の禅僧仙厓。子どもの落書きのようでいて一切を言い当てるあの飄逸な墨戯に、溪仙は郷里の血として親しんだ。もうひとりは京の富岡鉄斎。学識と気魄が奔放な筆に溢れ出す南画の巨匠である。仏画・禅画・南画を土台に、筆の速度と余白そのものが感興となる画風へ――対象をなぞらず一息に掴み取るその線は、やがて「新南画」と呼ばれた。

その奇才を見抜いたのが横山大観で、1915年、溪仙は日本美術院の同人に迎えられる。院展に放った風神雷神(1917)は、俵屋宗達以来の画題を四曲一双の絹本に据えながら、神々を軽みと諧謔でとらえ直した一作。同年の《淀》、京の名所を屏風に展じた嵯峨八景《嵐山の春》(ともに1919)、晩年の《御室の桜》(1933)や絶筆に近い万葉春秋(1936)に至るまで、桜も水も山も、溪仙の手にかかると輪郭を保ったまま揺らぎ、詩の気配を帯びる。駐日フランス大使にして詩人のポール・クローデルは溪仙の画に惚れ込み、その絵に自作の詩を書き添えた。異国の詩人が余白に言葉を寄せたくなる――そういう画だった。

1935年に帝国美術院会員となるが、翌1936年、帝展改組の処置に反発し、横山大観ら十三名とともに会員の座を退く。潔さもまた、型を拒み続けたこの画家らしい幕の引き方だった。同年7月6日、京都の自宅で脳溢血に倒れ、五十七年の生を閉じた。

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