
梅原龍三郎
南フランス、カーニュの丘の上のアトリエ。リウマチで指の曲がった老画家が、絵筆を手にくくりつけたまま薔薇色の裸婦を描いていた。1909年、二十歳そこそこの京都の青年がその手元を食い入るように見ていた。梅原龍三郎、のちに昭和洋画の一方の極を担う男が、ルノワールに弟子入りした瞬間である。
京都・下京の染物問屋に生まれた梅原は、伊藤快彦の鍾美会、浅井忠の聖護院洋画研究所で絵を覚え、1908年にパリへ渡った。アカデミー・ジュリアンの教室よりも、彼を捉えたのは晩年のルノワールの、こぼれるような色彩だった。この時期の《横臥裸婦》には、師の豊麗な肌の描き方がそのまま息づいている。
帰国後の梅原は、油絵具という西洋の道具を、琳派や南画、桃山の金屏風の感覚のなかへ思うさま溶かし込んでいく。晩年に何度も筆をとった桜島の連作では、噴煙をあげる山体を朱と緑青の激しい色面に還元し、絵具を厚く盛り上げて、装飾と量感を一枚の画面で両立させた。北京滞在から生まれた《紫禁城》(1940年)や《北京秋天》(1942年)、天壇を仰ぎ見た《雲中天壇》(1939年)では、金彩を交えた華やぎが画面いっぱいに広がる。
団体との関わりは目まぐるしい。1914年に二科会の創立へ加わって数年で去り、春陽会に参加してはまた抜け、1928年に国画会を結成してこれを主宰した。1944年に帝室技芸員となり東京美術学校の教授に就くが、性に合わなかったのか八年でその職を辞している。1952年に文化勲章、1973年にはフランスから芸術文化勲章コマンドールを受けた。安井曾太郎と並べて「安井・梅原の時代」と呼ばれた昭和の画壇で、梅原はいつも色彩の側に立っていた。作品は東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、愛知県美術館、大原美術館などに収まっている。
梅原龍三郎の作品をお持ちですか?
Cugiraで出品してみませんか?
作品が見つかりません
