期間限定 手数料割引中 出品者3% 購入者1%
恩地孝四郎

恩地孝四郎

おんちこうしろうOnchi Kōshirō
68 作品

一枚の版画に、山も人も花も描かれていない。色の帯がうねり、線がふるえ、余白がぽっかりと空いている——恩地孝四郎(1891〜1955)が1915年に彫った抒情の連作は、日本の近代美術で形あるものを手放した最初の一群に数えられる。喜びや痛みを、木を彫り紙に摺るという手の仕事だけで写しとろうとした。

東京・淀橋に、検事のち宮内省式部職を務めた父のもとで生まれた。東京美術学校では西洋画から彫刻へ移り、けっきょく学業は途中で捨てている。若い日に竹久夢二の甘くうるおった画に惹かれ、その叙情が生涯の底を流れつづけた。転機は1914年、詩と版画の同人誌《月映》を田中恭吉・藤森静雄と刊行したこと。全六輯、木口木版の細い刃が刻む死の匂いのなかで、恩地はしだいに具体的な形を捨ててゆく。翌年、盟友・田中の早すぎる死が、彼を抽象へさらに押しやった。

この頃カンディンスキーの抽象木版に出会い、深く共鳴する。以後、恩地の版画は音楽のような題を帯びる——リリック(1932年〜)、ポエム(1937年〜)、戦後の《フォルム》コンポジション、晩年のオブジェ(1954年〜)。板だけでは飽きたらず、紐や布、板切れ、針金、段ボール、落ち葉までを版に仕立てて摺る「マルチブロック」を編み出し、フォトグラムにも手を伸ばした。素材が生む偶然の揺らぎを、画面の呼吸としてそのまま残す。

装幀家としての顔も大きい。北原白秋や萩原朔太郎、室生犀星と交わり、本を一個の造形として設計した。1943年の「氷島」の著者は朔太郎の横顔を彫った肖像版画で、詩人と版画家の交友がそのまま一枚になっている。日本版画協会の常任委員となり、1939年には版画家の集い「一木会」を起こし、1953年には国際版画協会の初代理事長を務めた。版と紙、光と余白を等しく扱うその手つきは、絵画も書物も写真も一続きのものとして生きた。

恩地孝四郎の作品をお持ちですか?

Cugiraで出品してみませんか?

出品する
68件